愛するということ

昨日は時間が飛んでいった。

血圧が高すぎて辛いと言う利用者さんの対応で。

 

うちの施設は看護師さんがいないので、服薬管理から病院との連絡や、生活の中の看護的なことも、必要があれば職員が担うことになる。

話を伺いに訪室すると、とてもしんどそうに横になっておられた。

血圧は上が200近く、下も100を超えている。

容態を聞いて、病院に連絡してみますからちょっと待っていてくださいね、と言って退室した。

私は落ち着いて話を伺ってにこにこと対応したけれど、

明らかにいつもと様子が違う彼女を見て、私は不安になっていた。

何かあったらどうしようと思っていた。

 

私がすべきことは、もちろん決まっている。

事務室に入ってみんなに報告をした。

先輩が、病院に行くべきなのかどうなのか、かかりつけのお医者さまに電話してください、と言った。

電話をするとお医者さまは、それは動かすとしんどいだろうから、降圧剤を処方するので職員さんが取りに来てください、と仰った。

今から血圧を下げるお薬もらって来ますからね、もうちょっと待っててくださいね、と彼女に伝えた。少しほっとした顔をされた。

私は病院へ車を走らせた。

早く薬を届けなければ。

こんな思いでものを運んでいた人々は、物語の中にたくさん登場する。

薬、命の水、手紙。

自分はただの媒介者だけれども、この媒介がなければ、必要なことが為せない。

祈るような気持ちで、病院に着いた。

けれど、駐車場がかなり狭い。

頭から突っ込んで、出る時は道路にバックして合流しなければならない。

これは出るのが怖すぎる、無理だと思って、

歩道に入ってからバックで駐車しようとしたが、私の技術では無理であった。

あきらめて、道路の向かいにある系列の歯科医院の駐車場に停めることにした。

そこから少し離れた横断歩道を渡って、やっとのことで病院にたどり着いた。

すぐにこのお薬を飲んでもらってください。30分ごとに血圧を測ってください。血圧が下がらなかったり具合が悪くなったりすれば、すぐにまた電話をください。

この薬は、医師の指示があってから飲ませてください。

親切なお医者さまと看護師さんたちから、ありがたく受け取って、急いで帰った。

 

「Mさん、無事行けたんですね。お医者さんからまだ来てないんですけどって電話あったんだよ。」

と先輩職員さんに声をかけられた。

「あー、すみません!駐車が難しくて遠くに停めて、時間かかってしまいました!薬持って上がります!」

「そういうことかあ。」

運転が絡むと私の仕事はすぐにポンコツになる。

彼女の部屋に入る。

「お薬持ってきましたよ!」

「うん。」

身体を苦労して起こし、薬を飲んでもらえた。

血圧を測り、記録した。

「これから30分ごとに血圧測りに来ますからね〜。」

「うん。まだ頭痛い。ふらつく。」

「これからお薬で楽になると思いますよ。また30分後、すぐに来ますね。」

「うん。」ちょっと嬉しそうにうなずいた。

 

次の血圧測定は彼女の担当のベテラン職員さんが行かれた。

その間に、お医者さまから電話がかかってきた。

「血圧の値はどうですか?ご様子は?」

本当にまめにみてくださる先生だ。

「すみません、今他の者が測りに行っています。戻りましたら折り返しお電話します。」

まだ血圧高いままだし、調子悪そうだわ、と担当さんが帰ってこられた。

お医者さまに電話をした。

「そうですか。即効性のある薬ではないですからね。…次の測定をしたら、また電話ください。」

 

また30分後に訪室した。

日報にこれらの経緯を打ち込んだり、薬の管理の書類を作ったりしていると、すぐに次の測定の時間になる。

「測りに来ました〜」

何やら賑やかな音が聞こえる。

横になってスマホでドラマを見ておられた。ちょっと気分はよくなったのかな。

「まだ頭痛い。」

「そうですか。そろそろお薬効いてくると思うんですけどね〜。ゆったりしてくださいね。」

やはり血圧は高いままだ。

スマホの中で女性が泣いたり怒ったりしている。

「なんかドラマ、えらいことなってますけど 笑」

「あはは」

「何見てるんですか?」

渡る世間は鬼ばかり。昔のやつ。こればっかり見とる。」

「それ血圧上がりますやん!」

「ドロドロだ〜 笑」

「もっとゆったりした気分になれるの見てくださいよ〜」

「怒鳴り合うところが面白いんだ 笑」

「それ絶対血圧高くなりますって!」

「あはは」

「また30分後に来ますね。今日はみんな交代でしつこく来ますから。」

「わかった〜」

笑顔で会釈をしてくれた。

少しだけ体が動かせるようになっている。よかった。

無駄話で笑えるようになっている。本当によかった。

 

先日「職員に話し辛い、だってあんまり話しかけてもらえん、なんか意地悪されてるんかもしらんって思う。」と文句を言われたことがあった。

「そうですか?忙しい時は話かけれないことあったかもしれませんね。でも、職員はみんな、大事に思っていますよ。」

「そうか〜」嬉しさを隠せない顔をしていた。

自分から話しかけるのは苦手だけど、話しかけてもらうのはお好きみたい。

だから私が再々行っても、行くたびに嬉しそうにしてくれる。

そういうところ、可愛いなあと思えてしまう。

この困ったさんである利用者さんがいなくなったら、私はとても寂しくなるだろうなと思った。

(本当に本当に、この方はなかなかな困ったさんなんです。)

 

お医者さまに電話をした。

「薬飲んでから、もう1時間半以上経ってるわけですね。…では、もう1錠飲ませてください。それで、1時間後にまた電話をしてください。」

わかりました!今日はもう彼女に付きっきりだぞ。

すぐに薬を持って上がった。

水と共に飲み干して、「はい」と彼女は会釈をしてくれた。

「これで楽になると思いますよ。お大事にしてください。」

また、笑顔で丁寧に会釈してくれた。

 

 

急いで事務室に戻った。ギリギリ間に合った。昼ミーティングの司会は私だ。

今週は大きなことが2つほどあってバタバタ。それに関係する連絡も様々。

私の担当の子についても少し相談があった。

担当さんが、彼女の高血圧の様子についてと今後の対応について簡潔に報告してくれた。

ミーティングも無事に終わった。

 

日報に追記して、担当の職員さんと、夜はどの職員さんに頼もうかと相談した。

担当さんに、薬の書類作成の不明なところについて教えてもらえた。

そんなことをしていたら、もう30分経っている。

急いで彼女の部屋へ行った。

 

「あー、またドロドロドラマ見てるー」

「うん。 笑」

「調子はどうですか?」

「ふらつきなくなった。」

「ほんと?良かったー!」

「うん。」笑顔

「みんな心配してましたよ。しんどいだろうなあ、早くよくなってほしいねって言ってますよ。」

「そうか〜」嬉しそうなお顔。

血圧の数値を確認されて、「下がっとる!」

「良かったー!あー、ちょっと安心ですね。」

「うん」

「また来ますね〜。次私が来たら、その後は担当さんとRさんが来られます。」

「うんうん。」

穏やかな笑顔。仲良しの職員さんたちだものね、ちゃんと押さえております。

 

「下がってました〜!」

「あー良かった!」

バタバタしている事務室の中のみんなが、一瞬手を止めて、一斉に言ってくれた。

私たちの関係はなんなんだろう。

家族?友だち?いや、違う気がする。

でも、遠い親戚よりはずっと近い気がする。

一過性の関係ということが、大きな違いだ。

でもここにいる一時期は、とてもとても濃厚なお付き合いだ。

 

お医者さまに報告の電話。

「効いてきたようですね。でも今度は、血圧が下がりすぎてふらつくという可能性があります。安静にしてもらうしかないので、横になっていてもらってください。その他何か変わったことがあれば、いつでも電話してください。」

本当に親切でまめな先生だ。

ありがたくてたまらない。

こういう町の小さな医院のお医者さま、本当に多くの人を救っておられると思う。

私の祖父も、あの町できっとそんな存在だったんだろうなって思う。

 

 

私の勤務終わりに、もう一度血圧測定に行った。

中森明菜を聴いていた。

「あ、desireだ!」

「うん。好きなんだ〜」

「私も好きですよ」

「知っとる?」

「いい歌手たちの時代ですよね。」

「うん。明菜ちゃん今どうしてるか知らんけど…」

服薬管理の書類に印鑑を押してもらった。

立ち上がったり、移動したり、とても楽そうにされている。

血圧は、座って測られた。それまではずっと横たわったままだったけれど。

「少し楽そうですね、良かったです。」

「うん」

「今度は、下がりすぎてふらつくのが危ないってお医者さまが仰ってました。スマホベッドに置いて、何かあったら、そこから事務室に外線かけてください。横になっててくださいね。無理して内線かけに歩かないでくださいね。」

「うん、そうだな。」

 

「あのなあ、お風呂入りたいんだけど」

「お風呂…」言い淀む私。

「シャワーならいいかなあ」

「そうですね、もう少ししたらお嬢さん帰ってこられるから、それからの方がいいですね。何かあったらすぐ連絡してもらえるように。」

「そうだな、帰ってきてからシャワーにするわ。」

「うん、それがいいと思います。…他に、何かありますか?」

にこにこと待つ私。

何か言えることはないかなあと探しているような彼女。

また黄金色の昼下がりの光が部屋を満たす。

話題が見つからなかったみたい。微かに目をそらす。

「何かあれば、電話くださいね。誰かがすぐに来ますから。これからは1時間半おきぐらいに血圧測りに来ます。」

「うん。」

「じゃあ、今日は私はこれで。お大事になさってくださいね。」

「うん。ありがとうございました。」

「いいえ、とんでもないです!」

笑顔で見つめ合った。

 

扉を閉めた。

涙が出てきた。

彼女が、ありがとうございましたと言ってくれた。

初めてのことだ。

初めてのことだ。

初めてのことだ。

私は、人を愛するとはこういうことなのだと感じた。

 

相手がどんな人でも、どれだけ違っていても、どれだけ理解できなくても、

どんなことをしていても、どんな状態でいても、私に対してどのようであっても、

どんなことを言っていても、

そういうこととは全く別の次元で、私は人を愛することができるのだとわかった。

ヘルマン・ヘッセの『アウグスツス』という短編が描いていたのはまさにこのことだ。

愛されることが幸福なのではない、人を愛せることが幸福なのだと。