嘘つきストレンクス

内線がかかってきて、話をしたいと言われた。

「私でいいですか?」と尋ねると「うん、話したいから上がってきて。」と言われた。

ノックして扉を開けるなり、

「ここは警察だか?」

怒りまくっていらっしゃる。調子の悪いときの始まりは、まあこんな感じだ。

「いいえ!違いますよ。どうしたんですか〜?」

私はバカになることを覚えた。

「…あのな、」

笑いを一生懸命噛み殺した。

「ここは警察なのかって聞いてるの!」

おお、頑張って怒りを保てたようだ。

「違いますよ。どうして?」

「だってな…」

金銭管理や健康管理について(もちろん支援計画として同意の上なんだけれど)あれこれ言われるのが嫌で、

ストレスが溜まって、体調が悪い、気分が悪い、もう出ていきたい、という話だった。

 

それは確かにそうだろうと思った。

行政に保護されるということは、自由を奪われるということだ。

「でも言うこと聞いとかないとお金もらえないから、こうしましょうああしましょうって言われたら、うんうんって言うしかないが。

ほんとは嫌だけど、そう言わないといけないからそう言っとる。嫌だなんて言えるわけないが。」

この方は困ったちゃんだけど、けっこう冴えている。

いや、そうやって冴えていて、約束をするけれど守らないでいて、

「今回だけね」をあらゆる機関から引き出しているからこその困ったちゃんなんだけど、

何もできなくて福祉に頼りきりという受け身な生き方じゃなくて、なかなかにアグレッシブ。

きっとこんなこと言ってはダメなんだろうけれど、たくましくていいなと思えてしまった。

この施設を退所してからも、様々な福祉サービスを利用しながら、様々な機関と繋がりながら、

たくさんの人たちを困らせながら、したたかに生きていかれるんだろうなと、

ああ私はこんな風に思ってはいけないのだろうけれど、すごく安心してしまった。

この方は、病を患った何もできないかわいそうな人、ではないぞ。

 

 

でも、目一杯、かわいそうな私のお話をされるから、

そうなんですね、と、私も目一杯、その物語に入り込んでみた。

「お金がなくて苦しい気持ちとか、頼る人がいなくて怖い気持ちとか、あの職員にわかるわけがないが。

だってあの人には旦那さんもおるし、お金も困ってないし、頼る人がいるが。

私には何もないもん。お金使いすぎだって、言われたくない。好きにさせてほしい。

(使ったお金を)全部見せなきゃいけない。もう嫌だー!」

「そうですね。お金のこと、管理されるのは窮屈ですよね。お嫌なんですね。」

「そう。だから、ここは警察かって言ったの。」

「そっかあ…」

「あのな、他の人に言わんでよ。みんなすぐ言うんだから。

Nさんにもこの前、言わんでって言ったこと、Yさんに言ったんだから。

でもな、全部すぐバレるんだからな。情報はすぐ入るんだ。」

「わかりました!言いません。」

「ほんとだで。」

「はい!…私が今まで、言わないでって言われたことを、ばらしたことありますか?」

賭けに出てみた。

飲酒のことをはじめ、幾つも「言わんでよ」と言われたこと、私は速やかに職員全員に周知した上に関係機関に流しまくってきたけれど。

でも全て、上司と先輩に相談して、リークしたとバレないようにあの手この手で工夫を重ねてもらってきた。

「…ううん。Mさんは、ない。」

笑顔で答えてくれた。

そうなんだ。私はとんでもない嘘つきだね。

でも、とても嬉しかった。

「でしょ?」

「うん。だから来てもらったんだ。信頼しとるけんね。」

「そうだったんですね。嬉しいです。ありがとうございます。」

「だから、言わんでよ。今日Yさんにお金のこと言われて、嫌だったんだ。」

「わかりました。言わないです。でも、Yさんに嫌だったっていうことを言わなかったら、これからも何も変わらないですけど、いいんですか?」

「うん、いい。」

「そうなんですね。…じゃあ私は、お話を聴いて、それで、どうしたらいいんですか?」

「それだけでいい。」

「あ、そうなんですね。お話を聴くことが、私のお役目なんですね。」

「うん。」

「わかりました。いくらでも、話してください。私、聴きますね。それで…」

「他の人には言わんで。」

「オッケーです!」

目標の一致が取れた!

私を信頼してくださった。そのことが本当に嬉しかった。

 

彼女は椅子にどっかり座って、机に手を置いている。

私は彼女の手の横に自分の手を置いて、その上に顎をのせて、彼女を見上げている。

私はあなたを脅かしたりしないよって、全身でメッセージを送る。

そうやってあなたを見上げ続けて、

今日、私があなたのためにできることを、はっきりと教えてくれた。

私は、心理職として仕事ができているんじゃないだろうか?

 

 

 

うるさく言ってくる職員と、そうじゃなくて話しやすい職員がいること。

だから勤務表を見て、今晩は自動販売機にジュース買いに行けるかなって考えているんだって笑って言った。

「この前、夜中におしゃべりしましたね。」

「そう、Mさんだから大丈夫だ、ジュース買いに行こって思って。」

「あはは、そうだったんですね。」

私は、いつの間にか仲間になれていたんだ。

かなり職員は観察されている。そして職員によって対応を変えているみたい。

確かに、職員とどう付き合うかって、利用者さんにとってはすごく大きな問題だ。

「でもな、うるさくは言わんけど、もうNさんが一番嫌だ。だって言わんでって言ったことすぐバラすから。この前だけじゃないで。何回もだ。」

 

この方にとっては、他言しないこと、それがとても大切なことなのだとわかった。

職務上、報告しなければならないことは多々ある。

この方が隠したいと思うことこそ、周知しなければならない重要なことだったりする。

だけど、私はこの方と、ふたりきりの秘密を守りたいと思った。

それはとてもとても大切なことだと思った。

 

この施設に勤務が決まったとき、初めに言われたことが、

利用者から得た全ての情報を周知してください、ということだった。

「これは秘密だけど、と言われた話も、秘密を守りますと言って聞いておいて、

後で日報に全部書いてください。

他の職員はみんな、これはAさんだけが知っていることだと認識して、

知らないふりをして、情報を把握していてください。」

誠実さとかけ離れた仕事をしなければならないのだなと覚悟を決めた。

もうすぐ1年を迎えるにあたって、私は本当に嘘をつくのが上手になった。

だけど、私は利用者さんと子どもたちと、人間らしい対等で平等な関係を築きたいと願うから、

秘密を守りたいと思う。

全ての秘密は守れないけれど、影響のない小さな秘密は、できる限り守りたいと思った。

 

「お約束しましょう。言わないでって言われたことは、秘密にします。」

私は彼女の手に、私の手を重ねて、真っ直ぐに目を見て言った。

「うん。」

とても嬉しそうに微笑んだ。

私は嘘つきだ。

でも、必ずこの嘘はつき通す。

彼女を傷つけないために。

 

 

 

「苦しくってな、夜も眠れないし、死んでしまいたいなって思うこともあるんだ。

今までもあったんだけどな。一回や二回じゃないで。」

「そうなんですね。でも、そんなこと言わないで。」

私は彼女の手をゆっくりさする。

「うん。」

わかる気がする。あたたかい関係を、求めているのだろう。誰だってそうだ。

でも怖がりで不器用な彼女には、そんな関係がほとんど築けていない。

でも私は、あなたが信頼してくれたから、あなたとあたたかい関係を築くことができたと思う。

 

 

 

数日前の日曜日も、イライラして調子が悪いから薬を持って上がってきてほしいと言われたことがあった。

ベッドに寝転んで、音楽を聴いていた。

声をかけると、暗い顔で椅子に腰かけた。

「今日は何もない。買い物も行けれんし。娘も部屋に閉じこもったまんまだし。」

しばらく愚痴を言っていた。

左手が震えていた。

「手の震えが止まらん…」

机に置いた左手に、私の右手を重ねて、ゆっくりさすりながら話をした。

「何の音楽を聴いていたんですか?」

ドリフターズ!」

しばらく、ドリフと志村けんの話を楽しそうにされた。

緊張が治まると、手の震えも治まった。

「買い物に行こうかなあ…」「明日は病院だ…」などと言うと、

それは緊張することなのだろう、また手が震え始めた。

 

「何かな、最後はひとりなんかなって思う。」

落ち着いた声で、静かな目をしていた。

いつもは演技的というのか、表面に怒りや、迷いが見えるけれど、

今は目の奥の深いところまで、澄んで見えた気がした。

「それは、みんなそうかもしれないですね。

でも、一緒に居たっていう思い出は消えませんよ。

今はここに居られるから、いつでも私たちが側に居ますよ。」

私の言葉がどこまで届いたかはわからなかったけれど、

うんうんと静かにうなずかれた。

しばらく黙っていて、「もう大丈夫。」と言われて、私は退室した。

 

この日の出来事があったから、私たちはまた以前よりも近づけたのかもしれないと思った。

私たちはこの施設の中で、共に暮らしている。

 

 

 

再び、今日の会話の続き。

「ポトフってどうやって作るか知っとる?」

「作れますよ。適当ですけど。」

「この前一緒に作ってもらったんだけどな、作り方忘れた。」

「今日のご飯は?」

「もう作った。」

「早いですね!じゃあ今度、一緒にポトフ作りましょうか。」

「うん。」

「この話は、してもいいですか?」

「いいよ 笑」

「あのね、何話していたかって、報告しなきゃいけないんです。色々大変なんですよこっちも。

だから、こんなに長いこと居室に行って何してたのってなっちゃうんで、お料理の話していたってことにしましょう。」

「へえー。いいよ、そうしといて。お金のことは言わんでいいから。」

「わかりました。じゃあまた、夜に薬持ってきますね。」

 

気づけば40分も話をしていた。

送迎業務を、他の職員さんに引き継いでいてよかった。

まさかこんなに長くなるとは思わなかったけれど。

事務室に帰ると、長かったですねと笑顔で労ってもらった。

全てを秘密にはしなかった私は、かいつまんで報告すると、

「みんなに、誰にも言わんでって言って同じ話するよね」と笑われた。

確かにそのようではある。

でも彼女なりに、ニュアンスを変えたり、情報の取捨選択をしていて、この人にはこう話す、あの人にはここまで話す、など決めているようだ。

言わないでって言われた話ですと明記して、日報を書いた。

ああ、誠実とはほど遠い。

 

 

夜、薬を持って訪室すると

「聞かれんかった?」

「何を?」

「何してたって。大丈夫だった?」

「大丈夫でしたよ、お料理の話してましたって言いましたから。」

「そう、よかった。」

「ありがとうございます。」

秘密を共有すると、仲間になれる。

思うのだけど、この方は、普段はいつも自分のことばかりに関心を持っている。

でも、今日はとても私のことを気遣ってくれた。

それは彼女の利益に関係するけれど、私のことを考えてくれていた。

これは、とてもとても小さなことだけど、彼女が共同体感覚を育てていっているのだと思ってもいいだろうか。

そうであるかのように思い込んで、彼女の健康なところを探しながら、私たちふたりのより良い物語を作っていきたい。