ひとつひとつ、順々にこなしていけばいいんだなとわかってきた。
自分の不出来さにいちいち落ち込んだり反省したりせず、あまり考えずにいても、
繰り返していると上達していくようだ。
ベイトソン用語で言うと「学習0」に入るのかな?反復学習。
習うより慣れよとも言う。
私は本当に練習が嫌いで、そのくせ下手くそな自分も嫌で、理想は高い。
だから新しいことを始めるのが嫌いだ。
追い込まれてやっと重い腰を上げる。
でも、初めてだらけでこの職場に飛び込んでよかったなと思う。
未熟者の初心者ということに劣等感を感じているのはただ私だけで、
みんな、成長しようと足掻く私をあたたかく見守ってくださる。
私が目指しているのはいつも最上級も最上級らしい。
なぜ自分がそこへ行けると思い込めるのでしょうね。
いや、そこまで行かなければならないと思い込んでいるのだ。
仕事をするのが嫌でないのは、お金をもらえるからだ。
自分のできることが増えて、スキルが上がっていくということが私の喜びだ。
だから私は勉強するのが好きなんだろうけど、勉強することにはお金がかかる。
なのに仕事は、私を成長させてくれる上にお金がもらえるのだ。
ありがたいなと思う。
全くもって、資本主義社会に相容れない感覚で生きているなあと我ながら呆れる。
ある意味で、行政の下の福祉職で働くことに適性があるんだと思う。
私がどれだけ努力してもそれがお給料に結びつかないというのは、
「人のために」が「お金のために」と直接は結びつかないということで、
清らかにいられるように感じる。
逆に、私は民間のサービス業には向いていないだろうなと思う。
もちろん民間の健全さもある。一方で公務員の健全さもある。
生活保護のこととか児童扶養手当のこととか、少しずつ知っていっている。
仕組みや条件や計算方法などは理解できるようになるだろうが、
おそらくいつまでも、何が適切であるかはわかるようにはならないだろう。
障害が重い方がたくさんの補助がもらえるため、病気でいようとする人もいるし、
できる限り自立しようとすることで生活が大変になる人もいる。
精神的によりよく生きることが、お金のために阻まれることがある。
少しでも多くのお金を得られることが目的になり、よりよく生きることは忘れられる。
このような批判は私が困窮していないから言えることなのだろう。
それはわかっているけれど、食べ物がない状態で哲学などできないと、衣食足りて礼節を知るだと、多くの人は言うだろうけれど、
でも、今よりももっともっと物理的に貧しい時代があった。
その貧しい時代には、今よりもずっと、精神的な豊さがあったと私には思える。
ユリ・シュルヴィッツの『お父さんの地図』という絵本を思い出した。
戦争で家を失って、夕食のパンも手に入らないようなときに、
著者のお父さんは大きな世界地図を買ってきた。
著者はそのカラフルな地図を毎日隅から隅まで眺めて、ひとりで世界中を旅した。
その想像力と美しいものを見る目のおかげで、
お父さんのその豊かな心のおかげで、
やがて著者は美しい絵本を作る人になった。
私たちは確かに今、徐々に経済的に貧しくなっていっている。
けれど、なんとか手にしているお金で、一体何を買っているだろうか。
自分でできるはずの手間を惜しむために、どれだけのお金が動いているだろう。
心を豊かにするものは、これだけ物が溢れているけれど、わずかなように思う。
そして、いっときの快楽を与える何かを買い与えることを愛だと勘違いしているようにも思う。
私の職場で出会う人たちに、『お父さんの地図』を人生のモデルにしようと思う人はいないだろう。
利用者さんたちも、職員さんたちも。
やはり私が浮世離れしているのだろう。
でも私は、子どもたちに何を残せるかと考えると、
美しい世界を作っていく力が最も大切だと思うから、
美しい物語と絵と音楽を与えたいと思う。
米と味噌と野菜と肉魚卵も必要だ。もちろん生きるために必要だ。
でも、食べ物だけでは人として生きていけない。
しかも生活に必要なお金のうち、生鮮食品に使われている割合は小さい。
ああ、私はあまりに貴族的だ。
与太郎なのだ。許してほしい。