今週は3日連続でオンライン勉強会だった。
アドラー心理学というコンテクストを共有している仲間たちがいるから、
違うコンテクストでも私は必要とされる役を演じることができるのだと思う。
私がかのようにを採用しているから、アドラー心理学と全く違う前提の世界の中でも、
職場の一員としての役を担うことができるのだと思う。
本当の自分だとか私らしさとか、そういうものが実在するかのように思い込んで、
縛られて生きるのは苦しいと思う。
(心理職として採用されたはずなのに)心理職として仕事ができないのに、よくそんな風にして働けますね、と言ってもらうことがある。
職場の内外で、私の働き方についても色々な方に気にかけてもらっている。
でもね、私は誰かのお役に立てることが幸せみたい。
働いている間は、自分は役立たずじゃないって思えるみたいだから。
でも本当は、私は役立たずなんだろうなと思う。
力仕事できないし、専門もないし、不器用だし、世間知らずだし、興味関心趣味が偏っているし、
私は役立たずなんだと思う。
でも、役立たずのままで、私は必要な存在なんだろうとも思える。
私を必要としてくれる人々が、いるから。
私が何かに働きかけるのではなくて、私は触媒のように、人々に変化を起こさせるのだ。たぶん。
自分は役立たずじゃないって私が一番思い込める瞬間が、カウンセリングなりパセージなりをしているときなんだろう。
だから私はそれをしたくてたまらない。
だから今それができないことは、私にとって大きな意味がある。
月曜日、久しぶりに自助グループを開いた。
私のすべきことが、ここにもまだあるんだなと思えた。
必要とされる限り、やってみよう。
大した役には立たないけどね。
メンバーさんたちが私に価値を見出してくださるのは、私に価値があるかのように思い込んでおられるからだ。
価値があるのはアドラー心理学であって、それがただ私の中を通り抜けていくだけ。
しかも私がきちんとアドラー心理学を届けられているかどうかという問題も常にある。
今日は初めて、買い物同行をした。
初めて行く遠くのスーパーへ運転して行って、大いに道に迷った。
本当はとんでもない失敗なんだと思うけど、
「もう、Mさん、こんなに迷うなんて〜!でも私道わかるから大丈夫ですよ、そこは右ですよ、ほら、わかりませんかこの道だったら。」
って、笑われながら、利用者さんに道案内してもらった。
道中もスーパーの中でも、楽しくたくさんおしゃべりしてくれた。
彼氏いるんですか?とか、聞かれたりもした 笑
人懐っこい方で、以前から色々とおしゃべりしてくれる方だったけど、また少し心が近くなったなと感じられた。
私は他の職員さんたちのように役に立たないから、ただにこにこと話を聴くことに努めている。
役には立たないけれど、それが彼女にとって、この世で生きる心地よさになればいいなと願っている。
音楽のように。絵画のように。映画のように。小説のように。お芝居のように。
生き物が生きるために何の役にも立たないけれど、
それらによって人は豊かになれる。
そんな奢侈品を作ることに命を懸ける人に私は憧れる。
私もそうやって燃え尽きたいと願っている。
だから今の私は、誰かの生活を支えるチームの一員としての私は、燃え尽きることができない。
現場には、農作物を作るのと同じ類の誇りがある。
必需品を扱っているというプライドだ。
ある物事は、別の物事との差異によって規定される。
私は農学部で食物という必需品生産の現場で、思想の素晴らしさを学んだ。
私にとっては哲学科に行かなかったことがよかったんだろうなと思う。
同じように、私は生活密着型の福祉の現場で、物語の素晴らしさを学べるだろう。
何もかも思い通りにいかないことがよかったんだと、私は今も思うし、
何年も経ってから振り返ったときも、きっとそう思うだろう。
そう、私の劣等感のひとつに、私は現場に居られない、現場を知らない、ということがある。
浮世離れしている自分を好きだけれど、メタに上がって戯れることが私のストレンクスでもあると知っているけれど。
でもそれは私の劣等感でもある。
そういう意味でも、私はライフタスクに真正面から取り組んでいるんだなあ。
子どもたちの夏休みの宿題をチェックしてくださいねと先輩職員さんたちから言われた。
YouTubeをずっと見ている子どもたち。
30分のタイマーをかけているのに、ちょっと休憩しては何度もかけているから、結局ずっと見続けている。
先輩職員さんたちが、いい加減やめなさいよと声をかけた。
子どもたちは「あと9分で終わるよー」と答えた。
私の担当のFくんのところへ行って、「タイマーが鳴ったら、ちょっとお話ししたいことがあるんだけど、いい?」と聞いてみた。
「ああ、いいで。」
「ありがとう!じゃあ、後でお話しさせてね。」
Fくんは思いの外、快く共同の課題にしてくれた。
嬉しいな、と思って自分の席に帰ると、
先輩職員さんが、夏休みの宿題は早めにやっちゃわないと、もうお盆にもなるし、溜まっていっちゃって大変になるよ〜とFくんのところで話し始めた。
Fくんは「わかっとるから!これ見たらMさんと話しするから!」と不機嫌そうに先輩職員を押しのけていた。
「あ、そうだったの。…何見てるの?へえ〜、結構面白いね〜」と、先輩職員さんはFくんの隣に座って一緒にテレビを見始めた。
一部始終を見ていた他の先輩職員さんが、「ちゃんとタイマー鳴るのかなあ?」と訝しそうに言った。
タイマーが鳴った。
「タイマー鳴ったね。」と言いに行くと、うん、と、自分で消してくれた。
「お話ししてもいい?」
「ああ、いいで。」
「ありがと。ここでお話しする?向こうのお部屋に行く?」
「ここでいいで。」
「そう。オッケー。宿題のことなんだけどね、朝は9時から10時、夕方は6時から7時の間で、学習室でお勉強してほしいんだ。」
「しっとるで。」
「うん、今日の朝もしてたもんね。昨日の夜、9時ぐらいにあそこの机で宿題してたって聞いたんだけど…」
「そうだで。」
「遅い時間まで頑張ってたんだね。でも、夕方6時から7時の間で終わらせてもらえるかな?」
「ああ、わかった。」Fくんは私の腕にぴったりとひっついてきた。
「ありがとう。それで、夏休みの宿題表、見せてもらってもいい?」
「いいで。」
「あ、朝は今日の分、ちゃんとやったんだね。」
「ああ、夕方は漢ドするから。」
「ちゃんと自分でできているんだね。昨日までのノートも見せてもらっていい?」
「えー」Fくんはノートを手で押さえた。
「わかった。じゃあまた今度見せてくれる?明日の夕方は私宿題担当だから。お話はおしまい。ありがとう。」
「うん。」
本当に小さなことだ。でも、パセージの実践に努めている。
共同の課題を作る、目標の一致、意見を伝える、などなど。
全く違う動きをする職員さんたちの中に協力的に所属しながら、
子どもたちに対してパセージを実践するというのは、
けっこうアクロバティックなことをしていると思う。
うまくいかないことも多い。
側から見ていたら、私は何にもしていないと思われていたりもするかもしれない。
でもいいやと思えるようになった。
子どもたちが私と良い関係を作っていけるように。まずはそれが大事だと思うから。
だけど、私は放任育児をしたくはない。
うまくいかなくても、失敗しても、何の意味もなくても、パセージの実践を続けたいと思う。
子どもたちが私に色々な話をしてくれたり、話をしなくても側にくっついていてくれたり、ハイタッチしにきてくれたり、窓越しに手を振ってくれたり、
そんな小さなことで、彼らの愛情を感じる。
そのことが、私はすごく嬉しくて、
それだけでもいいと思えてしまう。
不自由な生活がコロナのためにより不自由になってしまった。
でもこの与えられた環境の中で、子どもたちはとても頑張って、毎日を生き抜いている。
私は、私が彼らの力になれるとは、やっぱり、思わないでいる方がいいと思う。
でも、あなたたちの力になりたいんだと私が願っていることは、伝わればいいなと思う。
何も裁かずにあなたの味方でいる存在が、側にいるんだよって、伝わればいいなと思う。