ホルン

比較的過ごしやすい気候の日が続いている。

あまり緊張せずに仕事ができるようになってきた。

施設の人たち(利用者さんたちも職員さんたちも)の方も、私に緊張しなくなってこられた。

 

業務の中で私の好きなことは、利用者さんに湿布を貼ってあげることと、子どもが料理を作る時のお手伝い。

居室のお掃除お片付けのお手伝いをするのも好きだ。

小さい子たちのお相手も好きだ。

子どもたちの宿題を見てあげるのも好きだ。プール遊びのお世話とか公園の付き添いも、嫌いではない。

あと、事務室の掃除とかシュレッダーの紙詰まりを綺麗にするのも好きだったりする。

どれも私の職場では、些末な仕事だ。何の専門知識もいらないし、経験値もいらない。誰だってできる仕事。

そういう仕事を好きだと思えて、楽しく取り組める私のことが、私は好きだ。

 

 

先日、リディア・ジッヒャーの論文のオンライン抄読会で、優越コンプレックスと劣等コンプレックスについて話し合った。

「私はこんなに弱い・小さい・愚かなんだから、〜なんて私の仕事にしないでよ」というのが劣等コンプレックス。

一方の優越コンプレックスは、「私はこんなに強い・すごいんだから、〜なんて私の仕事じゃないよ」というもの。

どちらも、私は○○なんだから、という自分勝手な言い訳でもって、自分のすべき課題を免除しようとすること。結局同じなのだ。

 

誰しも、どちらも使ってしまうことがあると思う。

私はどちらかというと優越コンプレックスを多用してきたように思う。

私は特別なんだから、些末な仕事は免除されるべきで、見栄えよく大きな仕事だけしたい、と思ってきた。

そしてその困難な仕事で素晴らしい成果を出すことができなければ、自分はダメだと思い込んでいたのだった。

なんという極端な好き嫌い。

…いや、もしかすると、これはトランペッターあるあるかもしれない。

重要なメロディーのソロが大好物。

tutti(全員で演奏する)で全ての音を突き抜けて一番目立つ音を響かせたい。

だから、マーチなどで木管アンサンブルがメロディーになるときなど、ホルンと一緒に裏打ちばっかりなんてやってられんぜ!と思っていたりする。

自分が輝けないところがあるなら、いっそ休符にしてもらっていいよと思っていたりする。

実際トランペットの楽譜は休符が非常に多い。

(異議のあるトランペッターの方がおられましたら、ご一報ください 笑)

 

そんな私が、誰にでもできるような些末な仕事を楽しく丁寧に取り組めるようになったことは、大きな成長だと思うのだ。

せっかく心理の専門家と言えるような資格も取ったのに、全然仕事に活かせていない。

どこにも抜け道がないほどに、私のしたいことができない。

これは素晴らしいことだと思う。

メルヘンセラピー的に考えると、見事な展開。この苦境をくぐり抜けて、主人公は成長するのだ。

 

優越の目標を追求しているとき、私はきっと嫌な奴だったんだろうなと思う。

いや、私が嫌な奴なのは変わらないんだろうけど、自分が嫌な奴だという自覚がある、劣等感を感じているときの方が、まだ嫌な程度はましだろう。

 

 

 

人のお世話をするということ、実は大嫌いだった。

そんなの私の仕事じゃないと思っていた。

それなのに、不思議なめぐりあわせで、私は人々の生活の全てにわたるお世話をさせてもらっている。

いつか私はここから去る。

いつか利用者さんたちも子どもたちも、ここから去って行く。

不思議なめぐりあわせで、私たちは出逢った。

だからこそ、限られた時間を、良い物語を紡いでいきたいと思う。

 

私は雑談もとても嫌いだったのに、毎日雑談をして利用者さんたちの様子をみている。

職員さんたちとも、色々な雑談をして、お互いのことを知っていっている。

私はここにちゃんと居場所ができてしまった。

全然、理想の私でないけれど。

 

私は大学生の一時期、吹奏楽部でホルンを吹いていた。

おそらく、今の私はホルン奏者だ。

うまく溶け込めるわけだ。