花を探す

わが施設の近隣の方から、たくさん咲いたのでとお裾分けをいただいたそうで

ペチュニアがふた瓶、玄関に飾ってあった。

今月の玄関に飾る花を買ってくるのは私の役目。初めてのミッションだ。

そのどぎついマゼンタ色と調和するような花を選ばなければ。

初めて行く花屋。駐車場が狭くて停めにくい。でもなんとか上手に停められた。

 

物静かな店員さん。色とりどりの花々とグリーン。

いいミッションだなと思えた。私の好きな花を選ぶことができる。

それをみんなに喜んでもらうことができる。

予算を伝えて、白と薄紫と淡いピンクのトルコキキョウを中心に、かすみ草などの白い小さな花と青いアザミ、それに少しだけ鮮やかな緑も加えて、花束を作ってもらった。

 

花を買うとは、こんなに幸せなものなのだなと不思議な気持ちになった。

なぜか少し懐かしい。

そうだ、亡くなったおばあちゃんのお見舞いに行くとき、何度か花屋で花を選んだのだった。

おばあちゃんはその小さな花束をとても喜んでくれて、

少しでも花もちがするようにとこまめに茎を切ったり水を替えたり、楽しくお世話してるのよと言ってくれた。

ここでは何もすることがないから、この子のお世話ができてとても嬉しいって。

そうだ、おばあちゃんはそういう人だったな。

花には私の思いを託すことができる。花は人と人とを繋いでくれる。

 

後部座席にそっと置いて、車体が揺れないように気をつけて運転して帰った。

花瓶に活けて玄関の棚に飾った。ペチュニアが落ち着いた。

「きれいねえ!」と、昨年のお花担当だった先輩が気づいてくれた。

「よかった!さっき買ってきたところなんですよ。」

「やっぱりお花があるといいですね。」

他の職員さんとも花の話をしながら、天気もいいし、ついでにと言って、

みんなで花壇の夏野菜に支柱を立ててネットを張った。

トマトとキュウリとピーマンと。枝豆がほとんど芽を出していないけど大丈夫かな。

そんな話をしていたら、何人かの利用者さんたちも集まってきて、おしゃべり。

ちょうど子どもたちが帰ってくる。

おかえり、と手を振ると、ただいまーって笑顔で応えてくれる。

 

一昨日はそんな穏やかな日だった。

私たちは一緒に暮らす仲間なんだと感じる。

こうやって小さな小さな楽しいひとときを過ごせることは、もしかすると、

彼女たちにとって、とても大きな意味があるかもしれない。

私たちは花によって、野菜によって、とても安全に手を繋ぐことができるから。

大変な人生でも、休みなく嵐というわけではなくて、ちゃんと穏やかな波の日もあって、

私には嵐を乗り切る手助けができないとしても、晴れた日に今日はいい日ですねって微笑み合うことはできる。

それは本当に些細でくだらないことかもしれないけれど。

でもそんな些細なことを、共に味わっていたいと思う。

 

 

いつも私を避けたり冷たい態度でいる利用者さんがいる。

今月は4回もその方の買い物同行を私が行うことがあった。

とてもおしゃべりな方なんだけど、私に対しては必要最低限の会話しかされない。

いやー気まずいでしょうなあ。また私ですみませんねーと思いながらも、付かず離れずの距離を保って、私は彼女の反応は気にせずに笑顔で対応を続けていた。

それが、3回目は、重い荷物を私が持ったり、駐車したりするタイミングで、ありがとうございますって何度か言ってくださって、あれ、と思った。

すると4回目の昨日は、「Aちゃんの具合どうですか?」と何気なく子どもさんの様子を尋ねると、

Aちゃんのことについてたくさんお話をしてくださった。

お店に着くまでの10分近く、ずっと。ここに来られる前の学校での話も。

 

この方は、確かにとても困ったちゃんなところも大いにあるし、色々な問題を抱えた方でもあるのだけど、

懐が深くてあたたかい方で、この方なりに子どもたちのために一生懸命に考えて、何かしようとされているんだなって感じた。

私が彼女の良いお母さんの側面を、心から素敵だと思えるようになったことが嬉しかった。

そして何より、私たちが同じように、優しくて繊細な良い子のAちゃんに、どうにかして元気になってほしいね、と手を繋ぐことができて、とても嬉しかった。

 

お店の中で、いつもは彼女はスタスタと一人で商品を探すのだけれど、

昨日は探している物を知らせてくれたので、一緒に探すことができた。

私が見つけられた時は一緒に喜んだ。

カレンダーが見つからなくて、お店の人に聞いて「季節商品なのでありません」と言われた時は、一緒にがっかりして、笑い合った。

「別の100均に行ってみますか。」

「時間、大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ。行ってみましょう!」

「ありがとうございます〜。カレンダーって季節商品なんですね…。上の子が予定がわかるように、書いてあげたらいいわと思って、小さいのでいいからほしかったんですけどね。」

 

この方の買い物はいつも、子どもたちのことを思ってのものだ。

その「子どもたちのために」がほとんどの場合、大量のお菓子だったりジュースだったり、あるいはゲームだったりして、物を与えて機嫌をとるという目的のために使われている。

でも、それを良かれと思ってやっているんだということを感じた。

おしゃべりしながらひとつひとつ商品を探してカゴに入れていく彼女の隣を歩きながら、

もう私は彼女のことを裁く気持ちが消えてしまった。

「Aちゃん、これ好きだから食べて元気になってくれるかな。これは気に入ってくれるかな。Mはこれ好きだから買っとこ。お兄ちゃんはこれじゃなきゃダメなんだよね〜」

そんな風に、子どもたちのこと、ひとりひとりを思いながらお菓子を選んでいく。

「みんな好みが違うからほんと大変で。」

そう言いながら微笑んでいる。

とてもきれいに見えた。ダヴィンチの「聖アンナと聖母子」の、アンナのようだった。

そうね。お母さん業って、悩みは尽きないけど幸せだよね。

この方は、精一杯、いいお母さんをやりたいんだなって、痛いほどわかった。

「お母さんは好きなものあるんですか?」

「私はあんまり。何が食べたいとか特になくって…」

押し出しが強い雰囲気の方だけど、それはそういう演出なだけなのかもしれない。

気弱で相手に合わせてしまう、そういう彼女の素顔が少し見えた気がした。

 

この方の金銭感覚はなんとかしなければならないところで、支援計画にも入っているし、

お菓子やジュースやゲームで釣る子育ては良いとは思えないし、

子育てについて他にもたくさんたくさんの課題がある。

それはそうなんだけれど。

いつも、ものすごい使命感を帯びた様子でお菓子とジュースをカートに山盛り入れていく背中を見ながら感じていた不思議な気持ちが、昨日氷解した。

子どもたちと良い関係を築くための対処行動だったんだなって。

もちろん私は良いとは思えない。

でもこの方を悪いとも、もう思えなくなってしまった。

 

 

結局、3、4軒の店を回ったけれどカレンダーはなかった。

見事な玉砕っぷりに、ふたりで笑うしかなかった。

施設にもらい物のカレンダーが確か余っていたはずだから、帰ったらそれを探してみますねと言ったら、喜んでくれた。

私は、彼女のカレンダーがほしいという意図は、とても素敵だと思えたから、どうにかしてお手伝いをしたかったのだと思う。

帰ってからあちこち探し回り、無事にカレンダーを発見したので、お渡しすることができた。

とても喜んでくれたけど、きっと私の方が嬉しかったと思う。

 

なかなかに曲者な彼女であることはわかっているから、

昨日私と仲良くしてくれたのは昨日だけのことなのかもしれない。

それでも別にいいと思えた。

私は、私が彼女の中に好きなところをたくさん見つけられたから嬉しかった。

私と仲良くしてくれたことを、あまり喜ばないようにしたいと思った。

それは、好かれたい私の自己執着だから。

 

そんな風に思っていたら、今日は私のいる前でも緊張せずに、他の職員さんとかなりプライベートな話をしていた。

いつもだったら私のいない別のところへ他の職員さんを引っ張って行って、話をしていたんだけれど。

もしかしたら、仲間だと思ってくれたのかもしれない。

まあ、それならそれでありがたいことだ。

彼女の背後に、トルコキキョウの花瓶が見えた。

美しいところを素敵なところを、探そうと思う。

今の私には、それだけしかできなくたっていいと思えた。

 

 

 

今日は玄関で、泣き喚くYちゃんが、お母さんの足にしがみついていた。

お母さんは足を動かせなくて困っていた。

声をかけて、どうも今日はお母さんは調子良さそうだぞと思えたので、

私は泣き喚くYちゃんを抱っこして、一緒に居室まで連れて上がった。

Yちゃんはお母さんに手を伸べて、抱きつこうとしている。

居室に上がり、お母さんにカーペットの上に座ってもらうよう頼んだ。

そこでYちゃんを抱っこしてもらった。

Yちゃんはぴたっと泣き止んで、お母さんにしがみついてニッコリした。

びっくりしているお母さん。

「立ったままの抱っこは負担だと思うので、こうやって座って抱っこしてあげてください。

これがYちゃんの1番の薬ですよ。」

「そうなんですね、わかりました。ありがとうございます。」

お母さんは笑っていた。

鎧を脱いだ、透き通った目をしていた。きれいだなと思った。

通じ合えたと思う。ほんの一瞬であっても。

 

子どもとどう関わったらいいかわからない方が、それでも必死に足掻きながら、子どもに向き合おうとしている。

彼女たちに対して、私にできることはほとんど何もないんだと思う。

でも、もしかしたら、あるのかもしれない。

もしあるとすればそれは、とても些細なことで、誰も気づかないぐらい小さなことなんだろうと思う。

そんな小さな小さな花を、愛でたいと思う。