雲隠れ

めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな

百人一首57番 紫式部

 

夜勤明けの静かな空が好きだ。5時過ぎにゴミを捨てに外に出る。

まだ暗い雲間から、明るい月影が一瞬見えて、また隠れてしまった。

重なった雲の形が差し込む光で縁取られていた。

 

象徴を読む訓練をし始めている。

要素還元的な見方に偏りがちな私を魔術象徴的な見方へと少し動かし、

この世界を捉え直そうとしている。

それは現代人にとってはおそろしくクレイジーだと思うけれど、

私のみならず人々をしあわせにする方法のように思えている。

 

 

 

先日、新しいクライアントさんのインテイクをした。

これからカウンセリングをさせていただくことに決まった。

このタイミングでのこのご縁そのものに、大きな意味を感じてしまう。

とてもありがたく思う。

 

「元には戻らないんですよね。」とうつむかれたので

「そうです、元には戻りません。でもね、前よりも良くすることはできますよ。」

と言った。

その瞬間、陽が差し込み、部屋が光で満たされた。

「え、ほんとですか?」と驚いて上げられた顔は陽に照らされ、輝いていた。

まるで映画のワンシーンのよう。

私の言葉が光をもたらしたのか。

光が私の言葉をもたらしたのか。

嘘のように綺麗だった。

 

これから始まるクライアントさんとの冒険の中で、

私もクライアントさんと一緒に暗い森で迷いそうになることがあるかもしれないけれど、

そういう時は、あの陽の差した瞬間を思い出そうと思う。

嘘のようなクレイジーな、美しい物語を私たちは作っていけるということを。

 

 

 

☆☆☆☆☆

 

 

互いに向き合って会える時間はとても限られている。

私にとってはどの人ともそうだ。子どもたちと過ごす時間も。

それは私が選んだ、時には辛い現実だけれど

だからこそ限られた時間を大切にしたいと思い、工夫するようになった。

 

私が縁あって今職場で出会えている人々とも、それは仕事だからとか支援だからとかではなくて、良い関係を作っていきたいと思う。

おそらくそのように考えることはとてもクレイジーなんだろうと思うけれど。

良い関係を作ることが苦手な人々が集まっているこの場所で、

私がここに紛れ込んでいるということの意味が、もしかしたらそこにあるのかもしれないから。

 

 

☆☆☆☆☆

 

宿題対応中に私が離席したからと、怒って子どもを連れて上がってしまったあのお母さんと、その後ふたりで話す機会がたくさんあった。

施設生活の不満、子どもたちについての不安などをよく言ってこられる方なのだが

ここ数日は、私が日に数回お相手することがあったのだ。

小さい子どもたちがうるさ過ぎて子どもも自分もイライラしているとか、

自分の子どもの友だちが他の子と遊んでいるから自分の子どもが遊べないとか、

どうしようもできないことが多い。

だけど、それは子どもたちへの愛情からくるものであると捉えてみることにした。

「どうしたらいいのかわからなくって…」と必ず言う彼女のその言葉は、

困難を乗り越えていくよう子どもたち勇気づけていくことができなくて、どうしたらいいのかわからなかったり、

自分がどうやって解決していけばいいかもわからなかったりする、

そんな彼女の本音のように私には感じられるようになった。

 

私も、あなたのその不満や不安を消してあげることはできない。

でも、あなたがただクレームをつけたいから言っているのではなくて、

その苦しみをどうにかしたくて話してくれているかのように信じて話を聴いていると、

私は少しだけ彼女に近づけたように思える。

だから何度も私に「Mさん、ちょっといいですか…」と話をしてくれるんだと思う。

「職員さんに言っても仕方がないとは思うんですけど、でもしんどい状況で暮らしているんですってことをわかってもらいたくって…」

その後に続く不平不満の方に意味があるのではなくて、

いつも言うこの言葉にこそ、彼女と手を繋げるところがあるんじゃないかなと私は思えている。

わかってほしいんだと、ただそれだけなんじゃないかと、

それは今までわかってもらえたと感じられたことがとても少なかった彼女にとって、

切実なことなんじゃないかなと思えるようになった。

 

「そうですね、それはしんどいですね。」

「気になることがあったら教えてください。様子を見に行きますから。」

「みんなが仲良く遊べるように気にかけていきますね。」

我々が言うことは、はっきり言って気休めにもならないことばかりだ。

だって集団生活だから、彼女の思い通りにはならないもの。

 

宿題対応中の離席についても、仕方のないことではあった。

でも、そのことについては彼女の不満がわかる気がした。

だから、当初言っていた日曜日に、時間のあった私に、母が宿題対応について一切話しかけてこなかったことには触れず、

「この前は途中で抜けてしまってすみませんでした。」と言ってみた。

「ああ、あの日はひとりにされててかわいそうだったので。」

「そうですね。自由に動ける子の場合はともかく、車椅子で自由に動けないのにということ、お母さんにとっては、取り残されたように感じてお辛かったかもしれません。すみませんでした。ここの問題をひとりで解いておいてって、彼には話はしていたのですけどね。」

そう言うと、彼女は驚いた顔をして、「ええ、まあ…」と言い淀んだ。

次に続ける言葉が見つからなかったのか、少し笑顔を見せ、

「まあ、そのことはいいんですけど、どっちかと言うと下の子の友だち関係の方がどうしたらいいんだろうって思っていて…」

と、別の不満について話をされた。

 

実際、どう考えても、車椅子の彼に対して、彼女が十分にケアをし愛情を注いでいるようには感じられない。

周りに対して言う彼女の言葉と、生活を見ていてわかる彼女の行動とは、あまりにかけ離れているから。

子どもを理由に、様々なクレームをつけているとしか思えないことも多々ある。

だけど、どうしてそんなにクレームを言わなければならないのかを考えると、

そうしないと彼女は劣等の位置に落ちてしまうからだと推察できる。

この母が、勇気がくじかれているのだ。

 

私に彼女を勇気づけることはおそらくできないだろう。

でも、隣に座って、苦しいですねって話を聴くことはできる。

そして私が隣に座って、ただ彼女の苦しさを見つめることを、彼女はゆるしてくれるようになった。

「そう、苦しいんです。」と微笑まれる。

その瞬間は、いつもの刺々しさもなくて、私は彼女の話を聴きたいと思える。

すると「すみません、お時間とってしまって。まあ、そんな感じなんで…よろしくお願いします。」と、

小さな笑みを残して少し恥ずかしそうにして、部屋へ上がっていかれる。

 

最近の彼女の話の終わりは、いつもそんな風だ。

階段を登っていく小さな背中を見送っていて

彼女は人づきあいも含め色んなことが苦手で、でもここまで一生懸命やってきたんだなって、初めて思えた。

 

だからと言って彼女の様々な不適切な行動を肯定することは私にはできないし、

彼女の苦しみをどうにかすることもできないし、

彼女の不満を解消することもできない。

でも、どうしようもなくてこうなったんだということ、

必死の適応努力をされているんだということ、

それは私も彼女も変わりないんだということ、

それは、心から思えるようになった。

 

私と彼女の間に光が差すのは、ほんの瞬間だけかもしれないけれど、

その一瞬の美しさを、留めておきたい。

忘れないでいたい。

輝く月はすぐに雲に隠れてしまう。