隣の魔術

しばらく体調を崩していて、昨日久しぶりに仕事に行った。

休み長かったけど大丈夫?と尋ねてくれる利用者さんや子どもたちがいて、嬉しかった。

何でもないよ大丈夫〜と言った。嘘をつくのが上手くなった。

 

 

ある利用者さんは泣いたり怒ったり、調子が悪い様子。

ベッドで足が痛いと内線をかけてこられたけれど、よくわからないから様子を見に上がってもらえますか?と上司に言われたので、訪室した。

「何かお困りですか?」

「ああ困っとる!あのな、このベッドだと足が痛いからもう処分したい!」非常に怒っている。

「ベッドで足が痛いって?」

「あのな、寝返りうつだろ、そうしたら足元を引っ張られるから痛いの!」

「足が当たる?」

「ううん、引っ張られるの!」

「足を引っ張られる?足が引っかかるんじゃなくて?」

「そう!」

「ん?何に?」

「霊にだが!」何を当たり前のことを聞くんだというように、顔をしかめられた。

「霊に、足を引っ張られるんですか?」

「そう。」ごく当然のように、不機嫌そうに返事をされた。

「ああ、それは困りますね。」私も真面目な顔をして、ごく当然のように返した。

「そう!困っとるんだ!」にっこりして、肩の力が抜けたようだ。

「それはいつからですか?」ごく普通に尋ねてみた。

「あのな、前からなんだけど、ずっと黙っとったんだ。人の声もするしな、私はそういうの聴こえるから。」声をひそめて言われる。

「そうなんですね。」私も声をひそめた。私に打ち明けてくれることが嬉しくなった。

 

模様替えを頻繁にする方なので、もしかするとうまくいくかな、と思って尋ねてみた。

「ベッド、この前はこっち向きじゃなかったですよね。別の向きだったときは、霊に足を引っ張られることはありましたか?」

「…なかった。」

「ほんとですか、じゃあ、向きを変えてみたらどうでしょう?」

「んー…でもこのベッドの足の方に霊が憑いとるんだと思う。だからもういらん。」

「そうですか?でも足が痛いからこのベッドにされたんですよね。ベッド使っていた方が身体は楽じゃないですか?」

「そうだなあ。」

「差し当たってベッドの向きを変えてみて、それでもまだ霊に引っ張られるようなら、また考えませんか?」

「うん、そうだな。ベッドどうしよう?」

「今一緒に動かしましょうか?」

「そうしよう!」いそいそと、部屋の中のものを動かし始められた。

頭はどっち側?など相談しながら、ふたりでベッドや家具を動かした。

 

すると、急に手を止めて不安そうに「あっ」と言われた。

「もしかしたら…足元の押し入れにな、ぬいぐるみいっぱい入れとるんだ。もしかしたらそれが引っ張っとったんかなあ?」

「え?あの中のぬいぐるみたちですか?みんないい子たちじゃないですか。絶対お母さんにそんなことしませんよ!」と笑顔で押し切る私 笑 

(半年ほど前に一緒に片付けたことがあるから、私はぬいぐるみたちとは面会済みだ。

というか、全員がこっちを向くように入れて欲しいと言われて、私が一生懸命並べたのだ。

まあ、その後ぬいぐるみたちがどうなっているかは知らないけれど、

彼女がぬいぐるみたちを大切にしていることは確かなことである。)

「うん、そうだな。」納得してくださった。

「方違え(かたたがえ)と言って、昔から方向を変えてみることは、霊などに対して効果があることなんですよ。」

大真面目に私は伝えた。

「へえ〜!」感心して目を丸くされている。

 

ベッドと家具を移動し終えたが、もう少し魔法をかけておこうと思った。

「金縛りにあうことはありませんか?」

「金縛り?ううん、それはない。」

この方にとって、足が動かないのと金縛りとには差異があるようだ。興味深いな。

足が動かなくなるのは、おそらく浮腫や鬱血によるものなのだろうけれど。

「そうですか、動かなくなるのは足だけなんですね。金縛りは全身ですけど、金縛りを解く方法、私知ってるんです。」

「え?そうなん?」

「知りたいですか?」にやっと笑ってみた。

「うん!」ワクワクされている。

「じゃあ教えますね。足も動くようになるかもしれませんし。

金縛りにあったら、手の小指に意識を集中させるんです。そして、小指の先から、薬指、中指って、順に動かしていくんです。そうすると全身の金縛りが解けます。」

「へえ〜!」

ふたりで小指から順に動かしていくシミュレーションをした。

「私は金縛りにあったことがあるんですけど、この方法で解けましたよ。」

「すごい!」もう満面の笑顔になっておられる。

「では、また霊のことでも、何かあったらいつでも言ってくださいね。」

「はい。ありがとうございました!」丁寧にお辞儀をしてくださった。

 

 

嘘をつくのが上手くなった。

いや、金縛りを解く方法に効果があるのは本当だけれども。

彼女は本当に霊に怯えながら生きている。

調子が悪いと幻聴や幻覚がある方なので、それを霊と名づけ、時々私に話してくれる。

だから私は彼女の信じる霊を、信じている「かのように」振る舞った。

 

 

 

彼女より数段私の方がクレイジーなのは、この一連の出来事を、日報にもあげたことだ。

かなりかいつまんでではあるけれど。

上司に、ずいぶん長かったけど大丈夫でしたか?と聞かれて、答えると面白がってくださったので、

きっとみんな笑ってくれるだろう。

もしかすると、私はただ彼女の機嫌をよくするために、彼女を甘やかしているだけだという人がいるかもしれない。

それは、そうかもしれないと思う。

でも情緒不安定だった彼女が落ち着いて、笑顔になったのは本当だ。

私はこれを、一種のサイコセラピーだと思って行っている。

これがたとえ治療ではなかったとしても、私と彼女の物語がより良いものに変わったのは本当だ。

 

きっと彼女はまた、霊に困ったとき、私に話をしてくれるだろう。

私は彼女が辛い思いをしていることを辛く思い、霊と上手くつき合う方法を一緒に探したいと願うだろう。

私は、彼女が幸せであることを願うから。

 

現場のひとつひとつの出来事や言葉なんて、大したものではなくて、この大きな物語が大切なのだと思える一方で、

このひとつひとつの私の言葉が相手の言葉が何よりも大切である、とも思える。

視点を変え続けながら、現場とメタとを切り替え続けながら、向き合っていると思う。

 

 

 

今日のオンラインのベイトソンゼミで、要素論的見方と全体論的見方という2つのものの見方について話があった。

科学的な分析的な見方と、文学的な統合的な見方。

ブレローマの世界と、クレアトゥーラの世界。

その異なるふたつの見方を、その異なるふたつの世界を、

それらを重ね合わせることで、新しい見方を得て、新しい世界に触れられるのだと思った。

私たちは近代西洋科学の考え方に染まりきっているので、全体論的なベイトソンの考え方や、あるいはアドラーの考え方が、とても難しく感じるのだろう。

 

私たちの世界は、けれど、近代の病に侵される前から世界としてあって、

人々は魔術の世界と親しく生きていた。

医術だって魔術から生まれた。

験担ぎとかおまじないとか占いとかおみくじとか、雑談していると面白いぐらいにみんな、何かしらの魔術を信じていることに気づかされる。

神さまや仏さまを信じることも、おそらく世界を全体として捉える方のものの見方だ。

現代日本人の哀しさは、神さまや仏さまを信じられなくなってしまったことだと思う。

仏さまを信じるよりも占いを信じる方が普通であることが、私個人的には残念だ。

今私は努めて普通の人である「かのように」仕事をしているが、

そろそろ私のクレイジーさが突き抜けていることはバレてきたように思うが、

それでもまだチベット仏教のお唱えをしていることは、さすがに言えないなと思う。

 

もう少し、全体論的な考え方が浸透していけば、もう少しだけ、みんな生きやすくなるんじゃないかなと思う。

全てが思い通りにならないと言って苦しんでいる人たちが、

世界の中に自分は組み込まれて生きていて、世界全体が調和を保っていることに気づけたらと思う。