境界の上で手を繋ごう

今週は盛りだくさんの1週間だった。

オンライン勉強会が3日、そのうち2つがレジュメ担当で、結構ハードだった。

週の前半は友だちと遊んだり、コーラスの練習に参加したり。

今日は久しぶりの自助グループ定例会。

そしてカウンセリングの依頼が舞い込んだ。

我ながらとても充実していると思う。

 

ドイツ語と英語の勉強は、継続できている。

今回は、今のところ本ではなく、主にYouTubeで勉強している。

英語話者のためのドイツ語トレーニングプログラムだ。

30日で300単語を学ぼうというのがあって、1回約10分、1回につき10単語ずつ学んでいる。

簡単な例文と共に学べるので、毎回10単語以上学べている。

例文で学ぶことは、高校の英語の先生が勧めていたなあと思い出した。

今までやったことがなかったけれど。でも効率的だし、文法にも馴染める良い方法だと思う。

この方法は英語がわからなければ何もわからないという欠点があるが、わからないものはわからないままで気にせず流していっている。

たくさんたくさん英語とドイツ語を浴びれば、そのうち身につくだろうと期待している。

苦手な運転や料理も、数をこなせばそれなりに上手になってきたから。

私は運転よりも料理よりも語学の方が好きだから、きっと身につけられると思う。

そんな風に、職場での経験が役に立っていたりもする。

私は今まで、細かいことにこだわりすぎたり、目指す目標が高すぎたりしたから、勉強がうまくできなかったんだろうなと思う。

だから今回は、努めてラフに勉強してみようと思っている。

 

ドイツ語も英語も私にとっては難しいけれど、

ヨーロッパ言語話者にとって、日本語習得はめちゃくちゃ難しいだろうなと思う。

この30days300wordsの動画は、英語話者のための他言語のプログラムも充実している。

試しに日本語の動画も見てみた。

 例文 1週間は七日。(isshuukann wa nanoka.)

 訳文 A week is seven days.

特に何の疑問もない。

漢字に振り仮名が打ってあるので、そうか漢字も覚えなきゃいけないのが大変だろうなあと思うぐらいだ。

ところが、コメント欄にこんな疑問が書いてあった。

「why at 2:40 shuu is said isshuukan and nana is said nanoka?」

「七日」はなぜ「なのか」なのか?

「ななにち」あるいは「しちにち」ならわかるけれど、ということだろう。

こんなこと山ほどあるだろうな。

論理的でない日本語を学ぶのはとても難しいと思う。

そう考えると、論理的なドイツ語を学ぶことは、まだ易しいのではないかなと、思い込むことにしている。

 

☆☆☆

 

自分でモチベーションを上げるためには、

自分のしていることに意味がある、役に立てていると、共同体への貢献につながると信じることや、

自分にはきっとできると楽観的に考えることや、

今のままでも自分はそこそこOKだと思えることが大事だと思う。

私自身は、最後の3つ目は、最近できるようになってきたかもしれない。

優越目標が高すぎるタイプの人は、3つ目が難しいんじゃないかなと思う。

すると、たいへん挫折しやすくなる。

また、他の人にも高い高い目標を押し付けがちかもしれない。

自分に対しても他人に対しても、勇気くじきがうまくなる。

 

 

 

 

今の仕事をさせてもらって、本当によかったと思うことがたくさんある。

私が思い込んできた「当たり前」がいかに特殊であったかを目の当たりにできた。

もちろん私は私の「当たり前」を手放すつもりはない。

でも、違う当たり前で生きている人たちを裁くつもりもなくなった。

 

それから、当たり前ができない人たちに出会えて、そのことを含めた世界をそういうものなのだと受けれられるようになったと思う。

そういう人たちが当たり前のように考えたり行動したりできないのは、そういう人たちであるからであって、

その人たちなりのより良い状態へ向かっていけるように支援をすべきではあるけれど、

「当たり前のことを当たり前にできる」という目標は、その人たちにとっては達成不可能な目標であることがわかった。

でも、同時に、人としては他の人たちと何にも変わりない、愛すべきひとりの大切な人だと思う。

子どものようだなと思うことが多い。

だから、私はそういう人たちと接するのが好きで、楽しい。

変わった人たちだ。でも、その人なりの論理がある。

その論理は、常識的な論理としては崩れているかもしれないけれど、よく話を聴けば、なるほどと納得できる筋がちゃんと存在しているのだ。

 

 

リディア・ジッヒャーの論文のオンライン抄読会で、ある精神病の患者さんについての記述があった。

自分をオーストリア皇妃エリザベートだと信じている女性のお話だった。

彼女は皇妃だから、白いドレスを着て小さな花かごを持って、絶えず髪をとかしていた。

精神病院の中の誰もが、自分を「陛下」と呼んでくれるから、彼女は幸せに暮らしていたという。

新人の看護師が彼女の本名を呼んで皇妃だと認めてくれなければ、激怒したそうだ。

でもみんなが彼女を皇妃にしておいてくれる限り、彼女は全て順調だった。

 

きっと、向き合いたくない現実があったのだろう、狂気と正気の境界を超えてしまった人だ。

そのことはとても気の毒なことだと思う。

でもその人が完全におかしくなっているというわけではなくて、

ある部分の現実を現実と認めないという、部分的なおかしさがある状態を精神病というのだろうなと感じた。

きちんと話が通じるところが、彼女にはきっとたくさんあったと思う。

健康的なところが、たくさんあったと思う。

オーストリア皇妃エリザーベトの、どのような特徴をエリザーべトらしさとして選ぶかは、人によって独特で、クリエイティブだ。

私はそのことに泣きそうになる。

彼女にとってエリザーベトは、美しく可愛らしい女性の象徴なのだ。

それを目標にして、そのように振る舞って生きることにした彼女のことを、私は本当に無害で、可愛らしいなって思える。

その思い込みの強さ、その世界でなり切って生きる演技力を、子どもらしいと感じるのだろうと思う。

 

俗世で卒なく生きていくには、クリエイティヴ能力が強すぎるんだね。

私がお付き合いしているあの人もあの人も、ああ本当に、この世で生きるのが難しそうだ。

でも、私たちは共に生きることができる。

私は彼女たちのお世話をするためだけに仕事をしているのではない。

私が彼女たちから教えてもらうことのどれほど多く、どれほど大きいことか!

彼女たちが喜んでくれるとき、心からの喜びだとわかって、私が本当に嬉しいのは、

彼女たちが子どもたちに近いからなんだなと思う。

 

 

認知症になったあるお年寄りたちや、今の職場でお近づきになったある人たちも、

こういう状態に近いのだろうと思う。

それならば、彼らの物語で共に歩むことが、彼らと仲間になる方法であると確信できる。

その物語の内に入って、仲間になってから、その物語をより良いものに作っていくことができるだろう。

もしかすると、その物語の内側から、現実の世界をより良く変えることもできるかもしれない。

でも現実は何一つ変わらなくても、物語が変われば、人はまったく、幸せになれる。

私はそう信じている。

 

 

 

私がどれほどクレイジーなことを述べているか、私に自覚はある。

でも野田先生は、治療者はクライアントよりも余計にクレイジーでなければ治療はできないと仰った。

私はきっと治療者に向いているだろう。