Maktub

他の人についてはそうだと容易くは言えなくなったけれど、少なくとも自分のことについては、

こうなるべき必然の流れがあると信じるようになった。

その流れを自分が抗わずに受け入れて、ひとつひとつ決断していくことが、

自分の人生を生きることだと思うようになった。

 

例えば、もしも目の前で虐待されている子どもがいたとすると、

そのことがその子にとっての必然の流れだとは私は思うことはできないけれど、

その子が私の目の前に現れたことは、私にとっての必然の流れだと信じられる。

今私がその子に対してできる限りのことをしたいと思う。

それはもし私でなければ、別の誰かに回ってくる世界からの要請なのだと思うから、

私は自分の不出来さに落ち込んだり、この出来事に傷ついたりする必要はないのだと思う。

そんな風に思うようになってから、今の職場で仕事をさせてもらえてよかったと思っている。

 

おそろしくデリケートなプライベートな現場に入り込んでいるから、

利用者さんの境遇や利用者さん自身と支援者である自分自身の区別がつかなくなってしまう人もいるだろう。

その危険性を回避するために、利用者さんは支援される人、私は支援する人という区別を、

対等でない人間関係でもって分けようとする人もいるだろう。

そのどちらも、世界を幸せにはしない方法だと思う。

二重見当識の考え方、つまり利用者さんの物語を利用者さんの立場になって見ながら、支援職の立場から必要な支援や成長すべき側面を見ていくということが必要だと思う。

でもその両面から見るためには、もう一段階高いメタの視点が必要だと思う。

利用者さんと支援者がいるというその構造を、この社会の中に組み込まれている様子を、現場にいながらにして把握していなければならない。

福祉の現場で一体どこまでこれが認識されているかどうかは知らないけれど、

私の高い理想としてはそこまでを求めている。

 

そうは言っても、愛情を持って関わっていれば、たいていのことは今よりはうまく進んでいくし、

時間が経てば次の福祉サービスに引き継いでいくことになるし、

とにかく毎日毎日を乗り切っていくことに必死というのが、たいていの現場の実情だと思う。

だからやっぱり、この仕事は私には向いてないなと感じる。

異質な存在だからこそ、私がメタに上がる視点を持って上司にお話しすることが、この現場にお役に立つようにも思う。

 

それから、私がどんなことが起きても感情的にならないことは、ここでお役に立てているかもしれないなと思う。

愛情や熱意があるからこそ陰性感情に引っ張られて、苦しんでいる職員さんたちがいる。

私に愛情や熱意が欠けているとは思わないけれど、まあそんなもんだよねと思えたり、そんなことが起こるのかと驚いたりするだけで、自分の理想通りに進まないことにイラつくことはない。

多分そういうことを利用者さんがMさんは落ち着いているねと表現してくれたり、子どもたちがMさんって怒らないよねと表現してくれたりするのだと思う。

 

思い通りにならないことばかりだ。

本当に、何もかも。

なんとかしようと頑張っているとき(優越性の目標を追求しているとき)はとても充実していて、ああ生きている!って満足できる。

自分の状況がどうであっても、それなりに満足できる。

2021年から2022年の前半は、私にとってそういう時期だったんだろうなと思う。

でも今は違う段階に入っているようだ。

そういう流れの中にいるのだと思う。

これに抗うつもりはない。ただ目の前のことを丁寧にこなしていくつもりだ。

 

 

心開ける友だちと話していると、自分のことについていつも新たな発見がある。

私が今どういう調子なのか、友だちに話すことで見えてくる。

カウンセリングで得られる効果と同じ類のプレゼントをいつももらっている。

そういう効果は、何もカウンセリング独自のものではないのだろうなと思う。

そうだとすれば、今の職場での利用者さんたち子どもたちとの関わりが、彼らへの勇気づけになり得ているのかもしれない。

誰にとっても、必要なのは心開ける友だちだ。

相手にとって、私がそうなれたらいい。私をどのように使ってもらってもいいから。

 

そしてその私の使い方は、世界の方から要請が来るんだと私は信じてしまっている。

その要請に応えることを、アドラー心理学ではresponsibility、責任と定義している。

こうでありたいという自分の理想の役割を手放す、自己執着を手放す訓練を大いにさせてもらっていると思う。