正しい選択

冷たい雨が降るごとに、冬の空気が濃くなっていく。

珍しく今日は、ぽっかり空いた休日。

 

1年前のことを思い出す。

生活の糧をどう得ることができるのか目処が立たず、

つてを頼ろうとしてみたり、ハローワークに通ってみたり、資格試験の勉強を始めてみたり。

通帳の金額がどんどん減っていって、温度計の目盛りがどんどん下がっていくことがやり切れなかったな。

ドストエフスキーチェーホフを初めて読んでみたのだった。

それから精神科医で小説家の加賀乙彦の本も読んだ。

いちいち、私の選択は正しかったなあと思う。

 

お金のことを第一に考えて短期バイトとかしてみたとしたら、

それはそれで多分楽しかったと思うし、それなりに役に立てただろうけれど、

私は自分の活かせる場所を探そうとしていた。

流れ着いた結果、想定外すぎる今の職場で得難い修行をさせてもらっている。

 

あの懐寒く心細い冬を体験したことは、この施設に暮らす人々への理解を、少しばかり手伝ってくれているような気がする。

福祉に頼ろうと決めることも、福祉に頼らないでいようと決めることも、どちらも大きな決断だ。

そんな選択を迫られている時点で、真っ当な大人から外れているような気分になる。

この施設に入所した時点で、相当なプライドを捨てるなり傷つけられるなりという体験をしておられるのだ。

そのことを忘れていた。

 

 

資格試験は、学科試験に合格することができた。

来週末の実技試験に合格すれば、資格取得を決めてから1年で達成できたことになる。

雪の降る中自動車教習所にも通って、今では人さまを乗せて走っているし、

努力したことが実を結んでいる。

嫌なこと苦手なことでも、目の前のことをひとつずつこなしていけば進んで行けるらしい。

嫌なこと苦手なことはとても多いけれど、こなしていくことにあまりエネルギーが要らなくなってきたように思う。

私自身、とても生きやすくなってきたと感じる。

やっと一人前になれただろうか。

 

 

 

 

今日はコーラスサークルのクリスマスコンサートだった。

幼稚園の子どもたちの前で歌うことができた。

手拍子してくれたり一緒に歌ってくれたり、楽しんでくれてとても嬉しかった。

音楽によって私たちはひとつになっていた。

それが多分私の理想とするところで、

そんな瞬間を味わうために、私は進んで行くんだろう。

 

この教会で賛美歌を響かせることが心地よい。

私は仏教徒だけど、救い主を待ち望んでいた人々に思いを馳せることはできる。

 

仲間たちと歌い、コンサートを作り上げる場があって、私はとても救われている。

オンラインで自助グループで、アドラー心理学を共に学ぶ仲間たちと同じように、

私にとって必要な場所なのだとあらためて思った。

ただ楽しいからというだけではないのだ。

私の声が私のものでなくなり、みんなの声に溶けてひとつになれるから、

それが私の理想とする私の所属の仕方なのだろうと思う。

本当はね、言葉もいらないんだろう。

何も言わなくても、ひとつであるという感じに浸っていたいのだろう。

なんだ、父にも似ているんだ、私は。

 

 

 

 

結局、甘やかされた子どもであった私の理想はどこまでも甘くって

世俗を生き抜いていくのに本気になっていると疲れてしまうんだろう。

歌いながら、物語を読みながら、物語を描きながら、

浮世離れした幸せに浸るのだ。

そういう居場所があるから、よかった。

これからもふわふわと、世の中をついでのように生きていくだろう。

 

ガッツを持って世俗をサバイブしていく施設で出会う人々を、心から尊敬する。

その人々の苦しさを、深刻にではなく、物語として真剣に受け止めて、

より良い物語を私との間にどうにか作っていこうとしているから、

私は多分傷ついたり悩んだりすることはない。

小さな小さな楽しみを喜びを見出す子どもじみた私は、

真っ当な大人が当たり前にできることを苦労しても当たり前にできない私は、

話を聴いて味わうだけで、良いアドバイスができない私は、

多分施設の人々にとって緩和剤になっているだろう。

 

だから、私は真っ当な大人でなくてよかったと思う。