今日はアドラーの著作のオンライン抄読会。
日中は子どもたちのお友だちが遊びに来てくれた。
子どもたちは私の小さな家でもお友だちと楽しく遊んでくれる。
近くの公園に遊びに行って、近くのパン屋でお昼を買って、みんなで食べた。
私は私で、仲良しのママ友とおしゃべりを楽しんだ。
お友だちが帰った後は、相変わらず工作をしたり本を読んだり、3人で昼寝したり勉強したり、YouTubeでMV見たり。
普通の春休みのお母さんをやらせてもらっている。
自分の家があること、自分の時間があること、
自由に生活を作っていけること。
本当にたくさんの方たちに支えられて、私は今の生活を手に入れられた。
それはとても運が良かったと思うし、私は恵まれていると思う。
当たり前のような生活を送ることができるということを
当たり前じゃない幸せだと思える私は、
本当に幸せだと思う。
では、当たり前のような生活が壊れたときに、幸せが壊れてしまうのかというと
必ずしもそうではないと私は思っている。
阪神大震災で物理的に全てが壊れたし、私の両親は離婚をした。
色々な当たり前が壊れるという得難い体験を私はした。
そこから、そのこと自体が私を不幸にするわけではないと学んだ。
何度も繰り返しているけれど、ただ本当にシンプルなアドラー心理学の法則があるだけで、
私が幸せな人々の中に所属していれば、私は幸せでいられるのだ。
周りの人たちと良い関係が築けていれば、どんな状況であっても、私は幸せでいられる。
全ての物を失くしたかのようだった両親は、激変した環境の中で私たち家族の暮らしを作ろうと努めていた。強かったし、明るかった。
私たちは神戸の街を離れ、大阪で一時的に暮らした。
物がないことについてからかわれたこともあった。早く帰れと言われたこともあった。
それは嫌だったけれど、私は被災したことを不運だとは思ったが、自分を不幸だと思いはしなかった。
大阪時代のあの数ヶ月と、それに続く神戸に帰ってからの数年は、
あの頃の家族の思い出は、私の中で最も美しく輝いている。
自分で自分を不幸にすることは簡単だ。
どんなに良い環境の中に居ようとも、私は自分を不幸にすることもできる。
野田先生に、「どうしてわざわざ不幸でいたい人たちがいるんですか?」と尋ねたことがある。
先生は「それは、不幸でいたら責任を取らなくていいからです。幸福に生きることの、なんと厳しいことか!」と仰った。
私が不幸なのは、この人のせい、あの人のせい、社会のせい。私はなんて不運で惨めでかわいそうなんでしょう。何もかもうまくいかない。誰も私のことを考えてくれない。みんななんてひどい人たち!なんてひどい世の中!
そうやってすべての責任を他人になすりつけていれば、自分は何も努力しないで、何も成長せずに、人を嫌な気分にさせて、人に嫌われて、何も責任を取らずに不幸に暮らしていくことができる。
そうか、幸せに生きないことにもメリットがあるんだ、と私は知った。
不幸でいたい人を、幸せにしたいと私が望むのは傲慢だと思った。
では不幸でいたい人を見捨てていいと言うのか?と聞かれたら、それは違うだろうと私も思う。
まず物的、制度的なこととしては、不運な、大変な状況を脱するためのセーフティーネットは必要不可欠だと思う。
被災した後、たくさんの方々のご厚意で私たち家族は助けられたし、同じように、被災者への優遇措置などによって大変助けられた。
いただいた救援物資は、ただの物ではなくて、心の込もったありがたいものだった。
みんなが当たり前の生活ができるように、福祉職が必要不可欠であると思う。
しかし、心理的なことについては、少し違うと思う。
相談的枠組みが成立しているかどうかが、前提になる。
もしも私に話をしたいと思ってくださり、私の意見を聴きたいと思ってくださるのであれば、
そこに相談的枠組みが成立するので、
その場合は私はその方のお話をお聴きし、その方の不幸を物語としてできる限り理解したいと思う。
そして、そこから幸せな物語を描き、歩んでいくことを勇気づけたいと思う。
私との間に良い人間関係を築いていくことを、私との間に幸せに所属することを、それができるのだということを感じてもらえたらと願う。
そうすれば、他の人との間にも良い関係を築くことができるようになるし、自分を幸せにすることもできるようになると信じているからだ。
このことをアドラーは共同体感覚の育成と言ったのだと私は理解している。
そういう援助の仕方として、心理職が必要であると私は思っている。
心理職が福祉職と異なるのは、援助を望んでいない人に対して援助ができないということだ。
援助ができないどころか、相談的枠組みの成立していないところに心理的な介入をすることは、お互いの関係にとって破壊的な影響をもたらす場合もある。
私の定義している幸せは、不快を取り除いた快という類の幸せではない。
幸せに生きようとする人々の中に所属しながら、自分にできる責任を果たしていく、
そういう修行の道を歩み続けていくことだ。
それを幸せと呼ばない人がいることも、私は知っている。
それはただ前提が違うだけ。どちらが正しいというわけではなくて、ただ立場が違うだけのことだ。