ある老人

先日、バスに乗っていたとき、

そうだ職場の説明会に行くときだった、

前の席に70歳ぐらいの男性が座った。

頼りない白い髪の毛がふわふわと揺れているのをぼんやり眺めていると、

後頭部の丸みと耳の形と首のあたりが見慣れた人に似ている気がした。

ここにおられるはずがないのに。

わかっているけど、ぼんやりと穏やかに過ごしておられた最期の頃によく似ていた。

どんな人でも、やがて老いて、死んでいくんだと、

きっとこの人も若くて力に満ちていた日々もあったんだろうと、

人間の移ろいについての肌触りを今までになく強く感じた。

良くも悪くも私の癖で、悲しいことからはなるべく私の心の距離を置いて、解離しようとするから、

普段の私はその肌触りを知らん振りしていたのだ。

 

ゆっくりと手を伸ばして、2、3度手すりを確かめてつかんでから、

危なっかしく腰を上げて、ゆっくりと立ち上がり、その老人はバスから降りて行った。

顔が見えた。全くの別人だった。

でもその動作は、私の見慣れた動きだった。

どんな人でも、やがて老いていく。

 

私はどこで老いていくんだろう。

 

私の大切な人たちも、老いていく。

 

もう二度と会えないかもしれないと思いながら、共に過ごせる瞬間を大切にしたいと思う。

私の限られた時間を、たまたま共に過ごせる人たちとの時間も、大切にしたいと思う。

 

たまたま流れ着いた私を拾ってくれた職場とのご縁を、バスの中で思った。

多分、そのたまたまを、偶然ではなく必然だと考えた方が自然なのだろう。

 

 

 

私は幸せになろうとは、もう思えなくなっている。

そういう状態になったから、この仕事が私に回ってきたんだと思う。

大変な状況にある方たちの援助をする仕事によって、私を幸せにすることは嫌だなと思う。

だからといって、その仕事によって、私を不幸せにすることも嫌だなと思う。

人々に私を使っていただきたいと思う。

でも、私は人々の幸せを願うけれど、私が人々を幸せにするのではないと思う。

そんなことは私にはできないのだと、やっと知った。やっと。

 

私は、目の前の人の中に美しさを見つけることを幸せに感じる。

 

本当はずっと側にいたいのに、私の大切な人たちは何人も、私から遠く離れて行ってしまう。

でもそれは私の自己執着だと知ってしまったので、

また会いたいと思っているということを伝え、解離に身を任せる。

私はこうやって老いていくんだろう。

側にはいられなくても、二度と会えなくても、共に過ごした瞬間に私が見つけた人々の美しさは、私のものだ。

それを思い出す限り、私は幸せを感じられる。