今日は野田先生の論文のオンライン勉強会。
1年半ほど前にこの論文を読んだときは全くわからなかったが、
(というか以前にこの論文のこの箇所を読んだ記憶がそもそもないことに驚いたのだが)
今日は少しだけ意味が理解できた。
些細なことでも、疑問や気づいたことを、気兼ねなく話せる仲間たちと学べることがありがたい。
この雰囲気を、自分の自助グループでも作っていれたらいいなと思う。
良いグループの条件について、他のオンライン勉強会で話し合ったことがあった。
目的意識が同じであること、そのグループに集まるみんなの目標が一致していることや、
どんな意見も批判されずに聴いてもらえることや、
リーダーの価値観や意見を押し付けないこと、それぞれの価値観や意見の違いを認め合うことや、
お互いの成長を喜び合えることなど。
本当は、オンラインじゃなくて実際に会って学び会えたら最も良いとわかっている。
お互いに尊敬し合い信頼し合える関係でないと、オンラインでのグループはうまく動かない。
そういう難しさや対面には敵わない面は多々あるけれど、地域的に孤立している私は、次善の策としてオンライン勉強会があって、助けられている。
先輩たち先生たちを含めた仲間たちと学ばせてもらう中で、
私が一番先輩になっている私の自助グループが、アドラー心理学から離れた私の個人的なグループになってしまわないように、
私がちゃんとアドレリアンの姿勢を保てるように、フィードバックしてもらえていると思う。
これから休日や時間の不規則な仕事が始まるので、自助グループにどれだけ私が参加できるかが不明だ。
私の役目が果たせなかったらどうしようと落ち込んでいたのだけど、
まず、自助グループに参加したいとか、パセージを受講したいと思ってくださっている仲間がこれだけできたということに、目を向けようと思う。
これはすごいことだ。
私以外、アドラー心理学を学ぼうと思っていた人が6年前にはここにはいなかったのだから。
人は慣れていく。
欲がどんどん出てくる。
私はある意味で、もう十分役目を果たしているんだろう。
どこからが私の自己執着で、どこまでが私の共同体感覚に向かう意志なのだろう?
自助グループの中心になってくれる仲間たちは、どんどん学びを深めていかれていて、
もう私がいなくても、十分グループを動かせるようになっておられる。
そのタイミングと私の仕事が始まるタイミングが重なったことも、偶然とは思えない。
寂しがり屋の私は、私のいないところでみんなが楽しく学んでいることが寂しいのだろう。
自分の能力でもって、そこの居場所にしがみつこうとしたくなったりしている。
ここでもまた、私は手を放していかなければならない。
アドラー心理学が必要とされていない現場の仕事に入ること、
アドラー心理学を共に学ぶ自助グループに常にはいられなくなること。
今までだって、そんな自由に会えていたわけではなくて、お忙しいみんなの調整をしながら会っていたわけだけど、これからは私の方に時間的余裕がなくなってしまう。
さらに、不規則な時間の仕事なので、今までのようにはオンライン勉強会も頻繁に参加できなくなってしまうように思う。
そういうわけで、私自身がアドラー心理学の実践を正しく行えなくなってしまいそうだと私は不安になっているらしい。
そんな最中での今日のオンライン勉強会だった。
そして、勉強会中に自助グループの仲間から、LINEが届いていた。
「落ち込んだとき、劣等の位置に落ちているとき、
美穂さんが言っていたことを思い出したりブログを読み直したりして、
まあ、もうちょっとやってみようかな、と思えています。
会わなくても連絡とらなくても、繰り返し勇気づけてもらっています。」
私は私の理想とする状況にいなくても、私の理想とする自分でなくても、
私はちゃんと自分の役目を果たして、そこに居られているのかな、と思えた。
ありがとう。
仲間と集まる計画を立てたり、おしゃべりをしたり、お茶を飲みに行ったり、お酒を飲みに行ったり、そうやって私は人と繋がろうとするのだけど
自分の寂しさからそうやって目を逸らそうとしていたのかもしれない。
誰かと居るときだけ、誰かと話しているときだけ寂しくないと思い込んでいるのは、やはり少なからず不健康だったと思う。
今ひとりで居る時間が増えて、誰かに側にいてほしいと思う時間も増えて、
でも、誰かが側に居るから私は大丈夫、と思うのはおかしなことだと思うようになった。
私はいつだって大丈夫だった。
物理的に側にいない時間の方がずっと膨大な人たちと、瞬間的につながったことによって、
私がどれだけ意味のある人生を得ていることかと思いやれば、
私の寂しさも仮想的なものにすぎないと思えた。
春休みはいつも寂しい。
大きな別れはいつもこの季節だ。
そういう憂鬱なムードに抗うことなく、最近ブログを書くときはずっとindigo la Endを聞いている。
川谷絵音の数あるバンドのうちの一つ。どのバンドよりも、とてつもなく切ない曲ばかりだ。
川谷絵音の曲が大好きだが、今まで、あまりに美しくて切なすぎるので、indigo la Endの曲だけ聞くことができなかったんだけど、
私はようやく自分の寂しさから逃げずに、憂鬱に浸れるようになった。
感情が揺さぶられても、自分は大丈夫だとわかったから。
私は自分で思うよりも強いのだろう。
私は自分で思うよりも確かな居場所を持っているのだろう。
解離性の傾向が強い私は、音楽によってすぐに現実から遠ざかることができる。
私の現実は、好きに色づけて味わえばいい。私のものだもの。
今日は藍色。
でもだからと言って、私が憂鬱な状態であるわけではない。