今日は昼過ぎから子どもたちが来てくれた。
一緒にアニメをぼんやり見たり、昼寝したり、しりとりしたり、夜ご飯を食べたり、昔の写真や動画を見たり、彼らが工作したり絵を描いたりしているのを眺めたり、私の勉強しているのを観察されたり。
次男に寝るまで横にいてほしいと言われたので、3人で布団にもぐり込む。
ぼく休み時間は、朝はサッカーしたり、業間休憩は新聞係の記事を書いたり、昼は図書室に行ったり、バスケしたり、毎日忙しいんだよと長男が言うと、
おれは朝はおにご(おにごっこ)だろ、昼もおにごだろ、図書室は業間休憩に急いで行くんだ。おれも忙しいんだよ、と次男。
最近は担任の先生も一緒におにごっこをしてくれるんだーと嬉しそう。
クラスの暴れん坊の子と、時々誘われて遊んでいるそうで、次男があの子の居場所にもなれているのかなと思った。
バスケのシュートが決まるようになってきたんだと長男が言えば、
おれは走っても疲れなくなったよ!おにごでもよく狙われるけど逃げれるんだ、と次男。
ドイツ語の勉強したいんだと長男が言えば、英語が上手になりたいんだと次男。
不思議だね、明るい部屋でこたつに入っているときよりも、もっとおしゃべりになって次から次へお話ししてくれる。
こうやってるの幸せだなあと言った後で、
ねえぼく、どうして生きてるのかなって思うんだーと次男が言った。
今こうしてなでてもらっているでしょ。すごく不思議に思えたりしてね。
時々ね、なんでここにいるんだろうって思うんだ。
そうなんだ。大人になってるんだと思うよ。大人はそういうこと考えるようになるんだよ。
どうして生きてるんだろうね。
みんな、世の中のお役に立つために生きてるんだと思うよ。
うん。そうだよね〜
元夫が、次男は時々学校に行きたくないとかお腹が痛いとか言う、と疲れた顔で言っていた。
でも一時期よりは落ち着いていると思うけど、私からも話聴いておくねと言うと、
確かに、まあ前よりは落ち着いているねと言った。
歯磨きしないで寝ることが多いし、あと、食欲にムラもある。
確かにうちでも食欲にムラはあるねえ。2人とも。
まあ、それは無理に食べさせなくてもいいかと思っているけど…
前の日とかその日の運動量とか興奮によって食欲変わるんだろうね。前からそうだった。
そうですね。
2人とも元が元気だから大丈夫だと思うよ。ちょっとぐらい食べない日があっても。
うん、そう思います。
私のPCの様子見てもらったり、4月からの私の仕事の話をしたり、成績の話を聞いたり、珍しく元夫と長く会話をした。
子どもたちのことを一生懸命に育ててくれていることを、あらためてありがたく思った。
子どもたちのこと、私は心配しなくて良いと思える。
今日も資格試験の勉強をたくさんしたけれど、
鴨志田穰の『日本はじっこ自滅旅』と『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』を読んだ。
『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』は、アル中文学の最高峰だと思っていた。
ドストエフスキーの『死の家の記録』と加賀乙彦の『頭医者』を読んで、久しぶりに読み返したいと思ったのだった。
著者がアルコール依存症者として閉鎖病棟での生活を書いている。
まさにドストエフスキー。
吐血するまで飲み続ける様子が、著者がギャンブラーとして賭場で無一文になっていく様子を書いているドストエフスキーの『賭博者』にも似た、怖いほどの臨場感がある。
西原理恵子との離婚前後の夫婦の愛憎は、あまりに綺麗に描かれすぎてはいないかと思うけれど、そこが醍醐味だったりもする。
同じアルコール依存症者への興味とあたたかい眼差しを感じる。
世界中の貧しい国や戦場でカメラマンをしていた著者の、好奇心と自分の立場への疑問と、罪悪感でもなくメシア願望もない、ある意味突き放したような、あきらめたような、でも人懐っこい態度が、どの本からも感じられる。
本当にどうしようもない人だと思うけれど、やっぱり嫌いになれない。
でも、元夫が鴨ちゃんみたいな人でなくて本当によかったと思ってしまった。
私は本当に苦労もせず痛みも感じずに、私の家族との関係を築いていくことができていると思う。
どちらかというと、元夫よりもはるかに私の方が鴨ちゃん側の人間なんだろうな…
ああそうか、元夫が苦労しているのか。
そういうことなの…かな…?
アルコール閉鎖病棟は監獄と似ている。
依存症は、理性では治らないのだなと思う。
きっと犯罪だってそうなのだろうと思う。
みな、おそろしく勇気をくじかれている。
そうであれば、彼らに必要なのは、人間らしく所属できる場所なのだろうと思う。
私は学校でも病院でも、自分を押し殺して窮屈に感じて過ごしてきたから、
人よりも監獄的状況への耐性が低いようだ。
機械的に扱われるのがたまらなく嫌だった。
4月から私が飛び込む福祉職の現場も、ある意味で監獄に近いものがある。
支援する側は、どうしても管理者側になる。収容される当事者の側にはなれない。そちら側の気持ちを理解することはできない。
そのことを、私は心底わかっていたいと思う。
チェーホフの『六号病棟』が、胸に迫って痛いほどだ。
だから本当は、やりたい仕事ではない。
けれどもこれが今私に降りかかってきたタスクだから、私が逃げてきたことだから、修行させていただこうと思っている。
監督官としての私の目の前に、ドストエフスキーが、鴨ちゃんが、いるのだと感じていたい。
同じ人間として囚人と付き合う医師であった加賀乙彦のように、人々に私をお役に立ててもらいたいと思う。