今日は子どもたちが昼ご飯から来てくれた。明日の夜ご飯までいる予定。
先週来てもらった時は私の体調が悪かったけれど、今日は大変調子が良かった。
彼らもとても落ち着いていたように思う。
穏やかに過ごせて良かった。
相互作用の中で生きているから、私だけの問題でもないし、彼らだけの問題でもないんだろう。
オンライン勉強会の資料を私は子どもたちの隣で作っていた。
長男は宿題、次男は絵を描いていた。
その後2人は工作を始めた。
途中喧嘩したりもしていたけれど、すぐに収まっていた。
特に長男が、感情的になることがほとんどなくなっている。
次男がギャーギャー叫ぶのも、ポーズであることはみんなわかっている。
長男が6、7歳の頃が、私たちの関係にとって一番難しい時期だった。
ご飯だよと言っても食卓になかなか来なかったことが、よくあった。
そして必ずと言っていいほど私は機嫌が悪くなり、感情的になっていた。
最も私の陰性感情が高まる場合は、私の父の家や母の家に行ってご飯をご馳走になるときに、長男が食卓にやって来ないという場合だった。
もちろん長男はそれをわかってやっていたに違いない。
そして愚かな私は、不適切な行動に負の注目をしまくっていた。
「みんなで過ごせるこの貴重な時間を良いものにしたい」という私の良い意図は、
「どうしてこの貴重な時間を台無しにするの!」と長男を裁く思考にすぐに転じた。
今日の昼ご飯時、ご飯にしてくださいと子どもたちが言ってきたにも関わらず、
私がお膳立てをしているときに2人は漫画を読み始め、
ご飯だよと言っても次男が返事もせず、食卓に来なかった。
長男は「はーい!」と言って飛んできた。
私と長男は食事を始めた。
「こうすけが1年生の時も、こういうことよくあったよね。」
「はいはい。ありましたね。」
姿勢を正して、神妙な顔をして応えてくれるのが可笑しかった。
「私はそういうときいっつも怒ってたね。あれがよくなかったんだろうね。」
「んー…」
少し首を傾げて、言葉を探しているような顔をした。
いつからこんなに相手のことを慮れるようになったんだろう。
頭をなぜると、にっこりした。
そして2人でとりとめないおしゃべりをしながら食事をしていた。
私がすっかり落ち着いたので
「しゅんすけさーん、食べないんだったらお母さんが食べちゃうけどどうする?」と言うと、
「あ、行きまーす。」
次男はすぐにやって来た。
「あんまり食べられないかも…」
「そうなんだ。じゃあ食べられるだけでいいから食べる?それともいらない?」
「食べられるだけ食べてみます。」
落ち着いて丁寧な言葉をつかってくれる次男。なんとなく久しぶりな気がした。
結局次男はお米は残してしまった。
「これは食べられないです。すみません。」
「いいえ。じゃあ夜に食べてね。あんまりお腹減ってなかったのかな。」
「うん。あー、朝、ピザトースト2枚食べたんだよなーちょっと多かったのかもしれないなー。1枚だけにしておけばよかったかな〜」
神妙な顔で、考え考え言ってくれるのが可笑しかった。
「ううん、朝ご飯いっぱい食べれたのいいことだと思うよ。ピザトースト美味しかったの?」
「うん!」
「よかったね。」
その後は、私と子どもたちの間はずっと穏やかだった。
やっと、協力的に過ごすことができるようになった。
ここで過ごす貴重な時間を大切にしたいという思いは、きっと長男も次男も私も、同じだ。
でも、せっかくの時間なのに、イライラすることが起こったり、思い通りにいかなかったり(あるいはお母さんが寝てばかりいたり?)して、先週はうまくいかなかったんだろう。
そうだ、それに私は体調が悪いと、感情の制御がおそろしく下手になる。
そして、せっかくの大事な時間なのに、なんでこんなことになっちゃうんだ!って、余計に負のループにはまってしまって落ち込んでいたように思う。
期待が大きければ大きいほど、大事であれば大事であるほど難しいけれど、
長い目で見れば、私たちの関係が良いものであることが最も大切だと思い、
目の前のことを思えば、今この瞬間お互いに心地よく過ごせることが最も大切だと思い、
次男の不適切な行動には注目を与えないように努めようと思う。
長男はこんなに落ち着いて頼もしく育ってくれた。
きっと次男も、今は大変なことがたくさんあるけれど、私が穏やかにつき合っていられたら、
落ち着いて頼もしい人に育っていくだろう。
不安を見るのはやめよう。
次男はとても陽気で、優しい子だ。
口が悪くて暴れん坊で、このままで大丈夫だろうかって、先週の私は思っていた。
不適切な側面ばかり見ていても、いいことはないね。
まずは次男と一緒に過ごせることが嬉しくてありがたいと、いつだって私の中心に抱えていたいと思う。