劇中劇

ひとりきりで資格試験の勉強をしているとうんざりしてくるが、

週末は子どもたちが来てくれるし、今日は今日で映画に行ったり、

たいへん気ままに暮らしている。

今日は小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』を読み始めた。

 

 

映画館に行ったのは14年ぶりぐらいになるんじゃないだろうか。

村上春樹原作の「ドライブ・マイ・カー」を観た。

たいへん楽しめた。

色々な点で楽しめたけれど、一番楽しめたのは、劇中劇の「ワーニャ伯父さん」を私が最近読んでいたことに起因する。

この映画の良さは、村上春樹のおかげではなくて、チェーホフのおかげだと思う。

 

「ワーニャ伯父さん」は、読んだだけでも素晴らしい物語だと思っていたけれど、

戯曲というのは、演じられて完成するものだと感じた。

劇中劇の変わった演出によって、言葉や芝居、物語というものを考えることもできた。

日本の文化人たちの韓国推しや様々な障害者の美化のような傾向が、私は好きではない。

この映画にもそういう傾向がふんだんに含まれているのだけれど、

それでも、多言語でひとつの芝居を作っていくというこの劇中劇の演出で、

言葉がわからないのに、だからこそかえって伝わるという瞬間があって、不覚にも感動してしまった。

でもそれは「ワーニャ伯父さん」という劇だったからだろうと思うのだ。

いや、「桜の園」でも同じだったかもしれないし、「3人姉妹」でもきっと同じだっただろう。

チェーホフの戯曲の力だ。

今このタイミングでこの映画を観れたことは、最近チェーホフを読み始めたからこそ多くのことを感じ、考えることができたので、本当にご縁だと思う。

 

それから、あんなにいい男である西島秀俊を、あそこまで情けない男として描けるのは、村上春樹の才能だと思った。

彼の小説の主人公の男たちは、どうしてあんなに儚くて情けないんだろう。

著者がそれを格好良いと思っていそうなところがまた、どうしようもなくダサくて、自己欺瞞的で、甘いなあとうんざりする。

村上春樹的なものを、私は好いてはいない。

でも、ああこれは村上春樹だなあとわかってしまう。小説でも、映画でも、彼の翻訳した絵本でも。

そういう独特の文体、スタイルが確立しているということはすごいと思う。

アドラーの使ったライフスタイルという言葉は、文体という語源を持つ、ということを実感する。

 

 

そして単純に、瀬戸内海の景色が、懐かしかった。

日本海とは海の色がまったく違う。

山の色も、まったく違う。

大きなスクリーンで観ると、潮風さえ感じられそうだった。

 

 

そんな風にしてたいへん楽しんだ。

多分、また観るだろう。