ロシア文学

二ヶ月ぶりに書いている。

ブログ休んでるけど最近どうしているの?と、たくさんの方が聞いてくださった。

そういう方たちが私にはいるから、私は生きていけるんだなあと思う。

 

 

10月後半から、尋常じゃない出来事が次々起こっていた。

ここがどん底だと思ったら、まだまだ底は深くて、奈落に落ちていく気分を味わった。

アリスがウサギの穴に落ちたとき、深過ぎて落ちていくのを忘れるくらいだった、あんな気分だった。

底には何があるのか、いや、底なんてあるのか、見極めてやろうという不思議な爽快感さえあった。

 

愛のタスク、交友のタスク、仕事のタスク、それぞれにとんでもないライフタスクが降りかかってきた。

アドラーが、2つのタスクで困難にぶつかると神経症になりやすく、3つのタスクで困難にぶつかると精神病になりやすいと書いていたのを読んだことがある。

私、病気になれるのかなとちょっと期待したけれど、私の精神はどうやら健康すぎたようだ。

病気を言い訳に使うことさえできなかった。

私の力ではどうしようもないことばかり。

でも、自分の状況を誰かのせいや環境のせいだと言い募ったところで、私の状況は何も変わらない。

私はこの状況の中で生きていくしかない。

しかし私はこのどん底を味わいながらも、幸せに暮らすことだって選べるんだと気づいた。

 

他人に憐まれるという貴重な体験も得た。

私にとってそれは、悪意を持たれたり傷つけられたり大切なものを失ったりするよりも、何よりも嫌な、耐え難いことだとわかった。

私は決して他人を憐みたくないと思った。

そして私は私を憐みたくないと思った。

 

 

そうだ、ロシア文学を読もう、と思い立った。

抗えない運命に翻弄され、非力な人間が足掻くのがロシア文学だと、野田先生が仰っていたのを思い出したからだ。

ドストエフスキーの『貧しき人々』、『賭博者』、『悪霊』、短編集や

チェーホフの『ワーニャ伯父さん』、『三人姉妹』、『桜の園』、短編集を読んだ。

あまりに悲惨で救いようがないのに、あまりに面白くて、驚くばかりである。

これが文学なのだ、と知った。

物語というものがやっとわかった気がする。

多作な作家たちなので、まだまだ読むべきものがあって楽しみだ。

 

アドラー共産主義との闘いを学び始めてから、ロシア革命共産主義について少しずつ学んでいるところだが、

ドストエフスキーはちょうどその直前の時代、チェーホフはほぼアドラーの同時代人だ。

ドストエフスキーも晩年はアドラーと同じ時代を生きていた。

文学を通して、その時代のロシアを肌で感じられる気がする。

そして共産主義の恐ろしさ、全体主義の恐ろしさ、非人道的な世界の恐ろしさを肌で感じ、子どもたちに託す日本の未来のために、何かしなければと思った。

 

 

もう私の物語は、私のためだけの物語ではないということがわかってしまった。

私は否応なくこの時代に生まれ、この地に生きている。

私は食べるために生きているのではない。

理想のために死のう。いや、生きよう。

 

私には私を思い、必要とし、愛してくれる方がたくさんいる。

どん底に落ちたからこそ、そのことを心から信じることができた。

そしてその方たちと共に、私はどんなときでも美しい物語を作っていくことができるのだとわかった。

そうすると、もう私は決して自分を不幸だとは思えないのだった。