質的変化

先週から今日までに3回、自助グループでエピソード分析の勉強会やパセージのフォローアップの会を開いた。

毎回、相手とより良い関係を築いていくために、自分には何ができるかということをメンバーさんたちと一緒に話し合っている。

エピソード分析という手法でもパセージで使う手法でも、それらを使ってアドラー心理学をどのように実践するかということに向かっている。

そこでメンバーさんたちと学ぶことが、いつも、自分と相手の関係を考えるところから始まって、

子どもの未来のことであったり、家族や他の人々とのより良い関係であったり、

時間的に空間的により広い共同体への貢献に向かっていることを感じる。

共同体感覚を、共に育てているのだろうと感じる。

そのことが、ぬるま湯に浸かって生きている私に、少しでも世の中のお役に立てているという意味を与えてくれている。

私の力はあまりに小さくて、大きな世界を変えることができない。

そのように劣等感を抱くほどに、私の権力意志は無謀に強いのだ…。

しかし、私にできることは、私が周りの人々と話し合い協力し合いながら、あたたかい関係を築いていくことしかないと思う。

本当に小さなことなんだけれど。

そして私と共に学んでくださる人たちが、周りの人々と話し合い協力しながら、あたたかい関係を築いていくこと。

そうやって、人間が人間らしく生きていける社会が、少しずつ少しずつ広がっていくのだと思う。

あまりに小さなことでしかないけれど。

でも、ここから始めなければ、何も変わらないと思う。

そういう風に思ってアドラー心理学の実践をしている仲間が、私にはたくさんいる。

だから、私ひとりではなくて、仲間たちひとりひとりの、その小さな小さな力が波のようになって、いつか大きな変化を起こすに違いないと思う。

 

 

質的な変化が起こるまでには、まるで何も変わっていないかのような時間を感じる。

質的な変化は、閾値を超えなければ起こらないからだ。

その変化に至るまでには、おそらく量的な蓄積も必要なのだろうと思う。

水が沸騰して水蒸気になるまでには、熱し続けなければならない。

 

 

私は本当に訓練が嫌いな人間で、最小限の努力で成果を勝ち取りたいと願っている。

教習所の勉強が終わって、先週から再び資格試験の勉強を始めているが、

どれほど勉強しても全く理解が深まらず、知識が定着しないことにうんざりしかけていた。

でも今日、少しだけ知識が整理されてきたことを感じられた。

とにかく、浸ってしまうことしかないと思った。

間違うことによって記憶に刻んでいく。何度も繰り返し読むことで自分の言語にする。

そのためには訓練するしかなくて、その間、全然進んでいないように思えるのだけれど、

差異化できなかった文字の羅列が、ようやく個性を持ってきた。

本当に私は訓練が嫌いだ。

…変化を感じられないことが嫌いなんだ。

だから今日、やっと、この勉強を楽しいと思えた。

 

私がこの資格を取ろうが取るまいが、この世界にとってどれほどの意味があるんだろうかと暗い気分になることは、勉強からの逃避かなと思っていたけれど、

私はちゃんと逃げずに勉強を続けていたので、おそらく逃避ではない。

意味のないように思えることが嫌いなのだ。

私は変化を起こしたくてたまらないのだ。

良い変化が起きるということが、私にとって意味のあることなのだろう。

変化を起こすためには、変化を感じられない間も、ずっとその働きをし続けることが必要なのだと学んだ。

願っているだけでは変化は起きない。

小さな訓練の積み重ねが、質的な変化を導く。

訓練をせずに変化だけ得ようなんて、そんなムシのいい話はない。

 

 

私が共にアドラー心理学やパセージを学んでいる仲間たちは、アスリート気質の人ばかりで、みなさん本当にストイックに訓練を重ねておられる。

怠惰な私を恥じる。

そのくせ、人よりも無謀な野望を掲げているなんてね。

でも私は決して手の届かない野望を目指したいから、心を鍛えよう。

変化を感じられなくても、無意味に思えても、私は正しい方法を知っているのだから、続けていこうと思う。

暴力のない、人間が人間らしく生きられる世界になるように。