今日はベイトソンのオンライン勉強会。
日中は雑用。
私は見るということについても劣等感が強い。
これは器官劣等性の問題と絡んでいて、視力が大変悪いから、ということがある。
しかも左目は強度の乱視なので、裸眼だと世界は全くわからなく、危険なところとなる。
しかしそのおかげで、私は空想の世界に遊ぶのが得意な子になったようにも思う。
目に見えているものを、全く違ったものに見立てたり、あるいは目を閉じたりして、自分の作った世界の中に浸るのが小さい頃から好きだった。
見るということは意識的な行動だと思う。
個人個人が、自分で恣意的に世界を切り取って、「見て」いる。
多くの場合、そのことに気づかずに生きている。
安全確認というのは、危険を探すということだ。
危険がないということを認識するということは、実はほぼ不可能なことのように思う。
まず、危険な場合ということを見たことがなければ、危険がないというのはわからない。
「危険がない」というのは、「危険がある」ということとの差異によってしか認識できないのだから。
例えば車の運転は、危険がないということを確認してから、進行する。
これは、進行するということが前提なのだと思う。
私はというと、基本的に動きたくなくて、確かに「安全がある」と確認できてから、やっと動き出すという前提で生きてきたように思う。
私はいつも安全を探していたのだろう。
それを見つけられたら、安心することができた。
しかし、「安全がある」ということは非常に不確かなことだ。
何が備わっていても、誰が側にいても、安全は保証できるものではない。
そして、例え安全が保証されていなくても、私は動いて、進んで行かなければならない。
じっとしていることはできないのだと、ようやくあきらめがついた。
ちょうど1週間前、大きなことが決まったのだけれど、
その日に、まるであつらえたような舞台設定で、不思議な出会いがあった。
見えないものについて話をすることができた。
多分それからだ。私は子どもの頃のように、ピントの甘い、少しぼやけた世界に包まれていることを感じる。
私が手を伸ばせば、伸ばした分だけ私は動く。
確かな安全はないけれど、私を生かしているこの世界は、今は確かな危険を私には寄越していないようだ。
進んで行くことが怖くなくなった気がする。
見えないものの中を進んで行くのなら、そうやって進んで行くしかないのなら、
私は自分の大切にしたい価値を守りながら進んでいきたい。
それは見えないものではあるけれど、私の行動によって示される。