この素晴らしき世界

今日は絶対的休日。

一旦、(このブログ以外の)アウトプットはお休み。


私はある意味で極限状態にある。

野田先生がお亡くなりになってから、ずっと続いている。

もしかして私の命が尽きるまでこれが続くのだとしても、不思議はない。

そうではあっても世界は変わりなく、私の前にある。



私は世界を感じることをとても怖がっていた。

早期回想の冒険を通して、そう思い込むに至る筋道もおぼろげに見えてきた。


おそらく、私はけっこう過保護に育てられた。

大切に大切に守られて育てられたと思う。

だから私は家の中にいれば安全で快適で、何不自由なかった。

けれどもその「家」が壊れるということを9歳のときに体験してしまった。

私の世界への恐れは、世界観の悪さは、人間関係によるものではないようだ。

どんな幸せな関係の中に守られ過ごしていても、恐ろしく苦しいことが突然にやってくる。

そのように私は思い込んでいる。

が、この思い込みはある程度、現実的なのではないだろうか。


その恐ろしく苦しいことから目をそらすために、世界を直接感じないですむように、

何重かのフィルターを通して感じるようにしてきたと思う。

あるいは、危険を早めに察知して回避してきたと思う。

この点において、私は不健康だったのだろうと思う。



今は、悲しみはそのまま悲しいと感じるようになった。

どれだけ避けようとしても、別れはやってくる。幸せは壊れてしまう。

だから、この瞬間の共に過ごせている今を、余すことなく感じていたいと思うようになった。


今日は野田先生のお誕生日。

おめでとうございますとお伝えしても、

はいはいどうも、とお返事してくださらないお祝いの日を

これから何回数えていくんだろう。


けれど、私は悲しみから逃げなくなった。

その分だけ、世界は怖いところではなくなった。

そして、やがて壊れてしまうからと逃げていた世界の美しさ、優しさ、暖かさも、そのまま感じられるようになった。

私は少し強くなれたんだと思う。