「かのように」であるかのように

今日はアドラーの著作のオンライン抄読会だった。


神経症について少しずつ理解できるようになってきた。
症状として生活に困難をきたすような神経症までいかなくても、 神経症的策動は誰もが多かれ少なかれ使うものだ。
私も使うことはある。
でも使いそうになった時に、あ、今私は神経症的策動を使おうとしているなと意識できるようになってきた。
そうやって意識したままで神経症的策動を使うことは、痛いものだ。
神経症的策動は、いわゆる言い訳、言い逃れだ。逃げるためのもっともらしい方便だ。
きっと私は何かから逃げようとして、理屈をこねているんだ。
それをわかりながら、メタの位置でそこを押さえられてしまったままで、言い訳を続けるのは馬鹿らしくなってくる。
そこまで意識すると、言い訳をやめて、あきらめようかという選択肢も見えてくる。


神経症的策動を使う時、私は何か自分の正当性を守りたいのだろう。
不出来な自分から目をそらすために、誰かのせいや何かのせいにしたいんだろう。
あるいは体調のせいとか偶然のせいとかにしたいんだろう。
本当は自分の気がすすまないから、何かを先伸ばしにしたいから、すべきことをしていないだけなのに。
する気はあるんだって、しようと思ってはいたんだって、でも疲れていたから…ってもっともらしい言い訳をする。
そうやって自分自身で人生を複雑にしているんだろう。
そうやって自分自身でコントロールできない人生に変えていっているんだろう。



責任を引き受けるということは、言い訳をせずに自分の非を認めるということは、
とても怖いけれど、私を自由にすることだと思う。
私がすべきことを後回しにしているのは、誰かのせいや何かのせいじゃなくて、私のせいなんだから。
ということは、私は私の意志ですべきことをできるわけだ。
大層なことじゃなくて、たとえば机の上の片付けひとつとっても、私が面倒くさくてしていないんだ。
時間がなかったり、他の用事で忘れていたり、疲れていたりするからじゃない。
私が今は片付けしたくなーいって思っているからだ。
そう言ってしまえば当たり前のことだけど、私はそこに壮大な言い訳をひっつけたがる。


でも、例えば私は五体投地を始めてから、五体投地を休んだのはただ1日だけで、毎日必ず10回はしている。
瞑想もあわせて行っている。
だから私は決して意志が弱いわけではないのだ、と知ってしまった。
昨年まで私は、自分は意志が弱いから毎日何かを続けることができないんだと思い込んでいた。
その言い訳は、もう使うことができない。
五体投地して瞑想したからといって、私が清く正しい人間に変われるものではない。
瞑想していると、たくさんの執着にまみれていて清くも正しくもない自分が見える。
けれどそこであがこうとしないのが、おそらく大事なんだと思う。
水面を見つめるように、ああ私は執着しているなあと、菩提心からかけ離れたところにいるなあと見つめる。
そのようにすることで、せめて言い訳しないで、不出来な自分を意識していたいと思う。




人のお役に立ちたいとは願うけれど、自分にいったいどれほどのことができるのだろうかと思う。
ただし、自分が役立たずであることを誰かのせいや何かのせいにはしたくないと思うようになった。
私はおそらく役立たずだ。
多分それは私の不出来さのせいでもなくて、
私がどれほど自分の可能な限り能力を伸ばしても、たとえ良い人になれたとしても、
それでも私はおそらく役立たずだ。
この認識は、もちろんFictionだ。
ある面で私は事実人の役に立っているだろうけれど、けれども私の根深い劣等感はここにある。
そしてこう思えることがおそらく、私を有用な道へと導いているのだろうと思うのだ。
だって私はいつも成長し続けていたいから。満足して留まることを嫌うから。
自分が役立たずであるかのように思い込む私のライフスタイルが、私の使い道を決めている。


でも、この認識がFictionであることを知っていれば、
私は劣等感の穴に落ちて苦しみもがくことが馬鹿げていることをわかっていられる。
この認識さえ、このライフスタイルでさえ、ただ私が選んでいるだけなんだから。
私は何らかのライフスタイルを掴まずには生きてはいられないから、たまたまこれを選んでみたけれど、
私は自らこのライフスタイルに縛られているだけ。
いつだってこれを手放すことができる。
そういう「かのように」を採用してみると、ライフスタイルのこだわりが少しずつ緩み、
神経症的策動を使って守る必要もなくなってくるんじゃないかなと思う。