情報が錯綜している。
私は地上波のテレビは見ていないので、もっぱらYouTubeで情報を集めようとしている。
私の情報源は、竹田恒泰チャンネル、岩田温チャンネル、月刊WiLL増刊号、ぐらい。
(なぜか最近竹田恒泰チャンネルが更新されていない。)
今日収録の月刊WiLL増刊号では、在日ウクライナ人のナザレンコ・アンドリーさんがウクライナ情勢についてお話しされていた。
【緊急収録】プーチン大統領「ウクライナ侵攻」の衝撃【WiLL増刊号】 - YouTube
それから、芸人(?)ピロシキーズの在日ロシア人のブラスさんも、自分のYouTubeチャンネルでウクライナ情勢についてお話しされていた。
【緊急】ウクライナ侵攻、ロシア人としてもう我慢できません。許されないことです。 - YouTube
このお二人の情報は、私には正しい情報として信じられると思えるのだけど、
(あまりにも信じられない情報ばかりで、私のこの言葉もネットの波に埋れて嘘になってしまうのかもしれない。もしも誤っていたと分かれば、すぐに訂正をします。)
それは、このお二人が現地の人と直接連絡を取って見聞きしたことを話しておられるからだ。
ナザレンコさんは、ウクライナのハリコフ州というロシアに近い町におられるご家族と連絡を取って、爆撃があったが現地ではその情報がテレビなどでは流れていなかったそうだ、ということなど、動画で話しておられる。
ブラスさんも、ウクライナのキエフにいる知人と連絡を取って、街の様子を動画で送ってもらい、人々が避難しているそうだということを動画で話しておられる。
確かに個人個人に入る情報は、量としては少ないし、小さな部分なので偏ってはいると思う。
しかし、現地の知り合いからダイレクトに届く情報は、データとしての質は良いと思う。
その情報を流す人を信じられるかどうかが、その情報が確かであるかどうかの判断基準になるのだろう。
けれども私は出会ったこともない人たちを、画面越しにどうやって判断できるのだろう?
言葉と眼差しの真摯さを受け取れるかどうか…
マスメディアは情報を編集する。ある意見に沿うように編集をする。
編集というのは情報の加工である。情報に意味づけするということだ。
そしてマスメディアの情報は、誰のものでもないレポートとなる。
レポートはあたかも事実であるかのように多くの人が語る。
レポートの冷たさは、ロシア人を一括りに、ウクライナ人を一括りに、日本人を一括りにしてしまうところだろう。
そして誰のものでもないレポートは、ロシアがウクライナに侵攻したということを、生身の「私」から遠ざける。
ナザレンコさんとブラスさんにとっては、ロシアがウクライナに侵攻したということは、
家族や知人の安否に関わる、「今」、「私」にとっての生身の出来事、エピソードなのだ。
私はそのことを思いたい。
誰かにとってのエピソードなんだということを。
ブラスさんは、自分はロシア人だけれども、祖国ロシアへの思いと、プーチンに賛成するかどうかというのは、別ものだとお話しされていた。
全てのロシア人がプーチンに賛成しているわけではない。自分は反対である。ウクライナ侵攻はしてはならないことだと思う、とお話しされていた。
ロシアどないなっとんねん、とSNSなどで攻撃されるが、それは困るとお話しされていた。
これは、レポートとエピソードを取り違える問題なのだと思う。
ロシア人という概念は、ひとりひとりのロシア人とは違う。ましてや、ロシア政府の決断とひとりひとりのロシア人の意見は別ものだ。
それは、日本人という概念が私というひとりの日本人とは違うことや、日本政府の決断と私というひとりの日本人の意見が別ものであることと、全く同じだ。
きっとずっとずっと昔から、私たちはレポートとエピソードを取り違えて論争をしてきたのだと思う。
でも今は、自分で情報を入手できるツールを手にして、自分の取捨選択した情報を信じて、自在に情報の波を泳いでいると勘違いできる今は、
よりレポートをエピソードであるかのように思い込みやすいのだろう。
どんな情報も、編集を免れることはできない。
だから私たちは、何かに意味づけられない情報は手にできない。
そのことをよくわかっていないといけない。
お二人とも、ウクライナの方たちと連絡が取れていたけれど、途中から連絡がつかなくなったと話しておられた。
確かなことは何もわからない。
どうか人々が安心して暮らせる世界になりますように。