母に作り方を教えてもらった、ゆずリンゴというデザートがある。
リンゴ1個をいちょう切りに切って、ゆず1個(ぐらい)を刻んで砂糖40g〜50gを混ぜ、
4〜5時間冷蔵庫で寝かすだけという簡単なものだが
作ると、子どもたちがとても喜んでくれた。
昨日も今日も、食事の終わるごとに「ゆずリンゴ食べる!」という時間があった。
昨晩は次男が砂糖を入れて一生懸命混ぜてくれた。
ボールにいっぱい作るのに、すぐになくなってしまう。
美味しいものは、すぐになくなってしまう。
でも一緒に作ったり、食べたりした思い出はいつまでも残る。
友だちとおしゃべりする時間も、すぐに過ぎてしまう。
私に残るのは、交わした言葉と、その思い出ばかりだ。
子どもたちが帰って、
オンラインのシンポジウムを聴きに行って、仲間たちと共に学び合って、
そしてひとりになって、買い物に出かけた。
私は今ひとりだけれど、私が生きる場はたくさんあって、
私はたくさんの人たちとのつながりの中で生かされているんだなと感じていた。
私という人間の価値は、大したことないんだろうと思う。
時々、絶望しそうになるのだ。多分そういうとき、私は私自身の幸せのことを考えている。
でも、賑やかしでもいい、大きな仕事を為そうとしている人たちに協力できるのであれば、
そのために生きていればいいのだと思った。
いつも野田先生のことを思う。
ありがたいご縁だと思う。
母はパセージで私を育ててくれたから、私は野田先生に育てていただいたようなものだ。
そして、大学生になってからは、個人的にたくさんのおしゃべりをさせてもらった。
たくさんの社会的なこと、政治的なことについて、国家安全保障について、おしゃべりさせてもらった。
それらのおしゃべりが、その後私がアドラー心理学を学んでいくうちに、アドラーの思想を、野田先生の思想を考えるときの重要なヒントになってくるなんて、思いもしなかった。
私はいつも重要なことを見聞きしているのに、それを当たり前のことのように思って、当たり前のようにして過ごしてしまう。
楽しかったおしゃべりは、すぐになくなってしまう。
でも、そのときの思い出だけは残っている。
人はひとりでは生きていませんよ、社会に組み込まれて生きているんですからって野田先生は仰ったけど、
でも、私はひとりだと思おう。
そう思っておくべきだと思う。
私はひとりであることがとても苦手だからだ。
私は、誰かに依存しやすいからだ。
幼い時は両親に、学校では先生に、大人になってからは恋人や夫に。
大きな決断は、誰かの判断を仰いでいた。あるいは、世間体を考えていた。
でも、大切なものをたくさん捨てた今からは、私はひとりで私と向き合おうと思う。
もちろん私はひとりきりではない。たくさんの人たちに支えられて、愛されて生きている。
でも、私は自分の力で歩いていかなければ。
誰かの判断や世間体でなく、私が自分で責任を持って、私のことを決めていかなければと思う。
計画していたパセージは、結局延期になってしまった。
私の力不足でもあり、ご縁やタイミングの問題でもある。
代わりに何をしようかな。
限られた時間を、大切に使わせてもらおう。
私の行動は、きっと側から見ていれば何も変わっていないだろう。
変わったのはモチベーションだ。
ゆずの味と香りは、どんな食材や料理に合わせても変わらない。
その独特さは、レモンやライムやカボスやスダチとは違う。
どれも、独特の風味で、他に代わりがない。
私がどれだけ変化をし続けても、それと同じように私の風味は変わらないのだろう。
私を上手に使って、お役に立てるように。
他の食材たちと溶け合って、新しい、良いものを作っていけるように。
どんな使い方ができるのか、楽しみながら試し続けてみようと思う。