今日も子どもたちが来てくれた。
電子ピアノと一緒に。
私は物持ちが良い方だと思うのだが、この電子ピアノは最長のお付き合いじゃないだろうか。
私が幼稚園の時にピアノを習い始めた時、買ってもらったものだ。
阪神大震災で全壊になったマンションから父が運び出してくれた。
その後、中学生からは母の実家にあったアップライトピアノをもらって使っていたので、
父の友人の家で数年使ってもらっていたはずだ。
私が大学で一人暮らしを始めて、あまりに寂しいのでピアノが弾きたくなって、
それで私の元に戻ってきた。
長男がピアノを習い始めることになって、その時にアップライトピアノを買ったので、
この電子ピアノは子供部屋の隅に置かれていた。
そのピアノが、ひとり暮らしをしている私の元に再び戻ってきたのだ。
部屋にぴったり収まった。まるでずっとそこに居たかのような顔をしている。
私はもうほとんど弾けないんだけど、少しずつ思い出していこう。
次男が家から『グリム童話集』(岩波少年文庫、下巻)を持ってきていて、「ふたりの兄弟」を読んでと言った。
双子の兄弟が森に捨てられたり、動物たちをお供にしたり、竜退治したり、お姫さまと結婚したり、魔法使いに騙されたり、死んだり生き返ったり、盛りだくさんの長い物語である。
狩人になった双子の兄弟が、空腹なので狩りをしようとすると、
狙いを定められた動物の親たちが、「どうか殺さないでください、私の子どもを差し上げますから」と言って、自分の子を二匹ずつ兄弟に残して逃げる。
ウサギ、キツネ、オオカミ、クマ、ライオンまで。
動物の子たちがじゃれあっているので兄弟は食べる気になれず、全員をお供に連れて冒険するのだった。
その場面を読んでいる時、
長男が「ひどいよねこの動物のお母さんたち。子ども捨てて逃げるなんてさ。ぼくのお母さんは優しいお母さんでよかった〜」と言った。
次男は、私をニヤッと見ながら、「そうかなあ」と言った。
長男「え、お母さんは優しいお母さんだよ」
私「…しゅんすけは、お母さんがお家を出て行ったから、子どもたちを捨てたと思ってるの?」
次男「…ん〜」首を傾けてニヤニヤしながら私を見ている。
長男「捨ててないよ!」
次男「ん〜」冗談めかしてはいるけれど、目は真剣だ。
私「この家にいっぱい来てもらえるようにしてさ、食べたいっていうご飯作って、一緒にお風呂入って洗ったげて、今もこうしてご本読んであげてるのに〜」
次男「うん。でもさ。」
私「そう…。」
次男は仰向けに寝そべっている私の上に乗って、身体全部を私に預けながら、偉そうな顔をしてページをめくった。
「続き読んで。」
私は続きを読み始めた。
次男の頬や手が、ずっと私の頬に触れていた。
次男が感じていることが次男にとっての本当なのだろう。
そのように伝えてくれたことは、ありがたいと思った。
私が彼を思う気持ちは、受け取ってくれていると信じている。
けれど、寂しい思いをさせていることも本当だ。
長男は優しいから、私を気遣ってくれているのだろう。
私はそこから目を逸らしてはいけない。誤魔化してはいけない。自己正当化はしたくない。
どれほどの理由があるにしても、彼らに寂しい思いをさせていることは事実だ。
彼らと共に暮らすことをやめたのは、私の決断であって、
それを子どもを捨てたと言うのであれば、それはそうなのだ。
このようなふざけた生き方を選んだ私が、誰かの援助をするということ、それも子育て中の方々の援助をすること、
ほんとにふざけてるなと思う。
いや、私はいつだって大真面目なんだけど、不適切だとか不謹慎だとか非常識だとか思う人もいるんだろうと思う。
それに対して、私は言い訳したくないと思う。
批判は、甘んじて受けようと思う。
私がどれほど子どもたちのことを思って、子どもたちのために最も良い方法を選ぼうと、為そうと努めていても、
私が子どもを捨てたことに変わりはないのだから。
私は誰に対しても、偉そうな口をきけないなと思うようになった。
私は誰かを糾弾できるほどの立派な人間ではない。
今までだってそうだったのだろうけど、そのことに気づかないほど私は傲慢だった。
自分が潔白であると思い込んでいられた。
今は、自分がマグダラのマリアに石を投げる資格がないことを自覚できるようになった。
それは成長だろう。
そして、子どものためにという自己欺瞞を、多分、しないでいられるようになったと思う。
全部が全部、私のためなのだ。
そのことに気づけたのは、子どものためになるだろうと思う。
私は人と衝突することがほとんどなくなった。
自分の思い通りにならないとき、相手に委ねることが多くなった。
自分の意見を言った後で、相手の意見に従うことが多くなった。
だがそれも、相手のためだったのではなくて、
私が好いてもらえるようにとか、嫌われないでいられるようにとかという、私のためだったのかもしれない。
それで、でも、それ以上に私が相手のためにできることは思いつかない。
相手のためにがどういうことなのかと考えられるようになったことだけは、私のためにを手放していると言えるだろうか。