今日の花を摘め

最近、ブログを見に来てくださる方が増えていて嬉しい。

なるべく毎日書き続けてみようという励みになっています。ありがとうございます。

無理はしないけれどね。

 

自分でしようと決めたことをできたときは、とても清々しい気持ちになれる。

チベット仏教の瞑想と五体投地は、この1年間、ほとんど毎日続けられている。

他人のお家に泊まりに行っても、実は夜な夜なこっそりお唱えしているのだった。

 

どうしても私は、私のためにという自己執着を手放すことができない。

だから毎日瞑想をして、仏さまの心を思い出す時間を作って、

せめてその時間だけは、自分が世界とひとつであることを、自分が世界の中で生かされていることを感じようとしている。

自分を世界のために使っていただこうと、皆が幸せであるようにと、祈っている。

私にとっての瞑想は、お風呂に入るようなものだ。

いくら清潔に生きようとしても、生きている限り汚れてしまうのだ。

だから、私は自分を点検する。

お風呂上がりのその瞬間だけは清潔でいられるのと同じように、瞑想後のその瞬間だけは清らかでいられたらと思う。

 

アドラーが、罪を悔いている罪人ということを書いていた。

多分私が感じていることもそれに近いのだろうと思う。

私は清らかには生きられない。自己執着を手放すことができない。

それが心底わかったから、今ようやく、私はスタート地点に立てたのだと思う。

 

 

ひとり暮らしの食事は寂しいので、いつもYouTubeチャンネルを見ているのだが、

岩田温チャンネルと竹田恒泰チャンネルとに加え、

最近は山田五郎の大人の教養チャンネルを楽しんでいる。

毎回、主に西洋絵画について、画家の人生や時代背景や美術史を縦横無尽に語りながら、ひとつの絵について掘り下げていく構成だ。

画家にはぶっ飛んだ人が多くて、大変な人生を送った人が多いので、大変面白いし嬉しい。

こんな風にして、腕一本の技術だけで一生懸命生きた人がいるんだということに感動する。

私も口ひとつの技術だけで生きていきたいものだと思う。

 

 

今日はホルバインの描いた「2人の大使」という絵についての回を見た。

メメント・モリ(死を忘れるな)は知っていたが、カルぺ・ディエム(その日(の花)を摘め)という言葉は初めて知った。

 

人を援助するということには、自分のメシア願望という優越性の追求に他人を使うおそれがつきまとう。

私のように傲慢で権力意志の強い人間にとっては危険度が高い。

特に、必要とされる仕事として援助をするとき、自己執着と職分との境目が曖昧になりやすいように思う。

仮想論を知らず、悪い世界観に浸り切った一般社会の中で、私はどうやって援助していけるのかなあと思っていたのだが

そうか、カルぺ・ディエムなんだと気づいた。

その人が、今を美しく咲いていくために、私はその人の美しさを見つけ出せばいいのだろう。

それなら、いつも私がやってきたことだ。自助グループでも、パセージでも、カウンセリングでも。

その人がどのような境遇に陥っていたとしても、必ずその人にはその人に特有の美しいところがあって、それを活かして生きておられるのだ。

そのことを忘れないでいれば、私は目の前の人を憐むことなく、限られた私の力を使っていただくことができるんじゃないだろうか。

 

 

風が強くなってきた。今晩から雪が降るらしい。

雪の中で咲く花は希望だ。