今日と明日のプチパセージも参加希望者がおられず、中止になってしまった。
しかしおかげさまで頼まれ仕事の文案作成に専念することができた。
昨日練り直した構想を、今日は形にするところまではできた。
粗雑ではあるが、それはそれで私のストレンクスなんだろうと思うことにした。
緻密な依頼人と共に、これから詰めていけばいいことだ。
夜はさすがに疲れてきたので、まだ引用や資料に当たらなければならないところが残っているが、今日は仕事を切り上げることにした。
作業がのってきて集中力が発揮されてくると、今度は切り上げるのが難しい。
集中力が発揮されるまでは気分転換しかしていないような暮らしぶりになるのだが、
集中し始めると、他のことに見向きもせずに、ただそのひとつだけを満足いくまで仕上げたくなってしまう。
とは言え、満足できるようなものには決して仕上がらないので、途中でがっかりしたり疲れ果てたりして立ち止まる。
それで休憩することができる。
メタメタぐらいからこのメカニズムを眺めてみれば、よいバランスであると思う。
同居人にとってはこういう人と暮らすのは面倒だったろうと思う。
ピリピリしていたしなあ…。
でも今はひとり暮らしなので邪魔も入らないし、私がご迷惑をおかけすることもない。
快適ではある。
けれど、誰かと話すことがないので刺激が少ないし、
子どものお迎えまでにとか、夜ご飯作るまでにとか、そういう時間制限の中で集中しなければという縛りもないので、作業効率は実はあまり高くないような気もする。
とうとう食材が尽きたので、明日は買い物に行って、
ひとりで喫茶店にでも行ってみようか。
パセージなどの他の仕事があれば、その合間を縫って作業ができるので、
刺激も時間制限も手にできて、私にとっては一番よい環境になるのだけれどなあ。
まあ仕方がない。
私は文筆稼業に向いていない。
丁寧で緻密な論を組み立てられるように修行しなければ。
しかし根気がなく、理想が高すぎる。
やはり文章も、共同作業でなければよいものを作れないようだ。
依頼人との文章のやりとりによって、だんだんと形作られていく過程が好きだ。
ものづくりはきっと何だって、チームワークが必要なんだろうと思う。
私の作業を支えてくれている音楽だって、作詞作曲と編曲と演奏と、映像作成や配信といったところまで、
想像できないぐらい多くの人たちの力で出来上がっているのだろう。
ステージを作るのだって講座を開催するのだって同じことだ。
自分ひとりで何かを成し遂げたかったけれど、その執着を捨てられるようになったのは私の成長だと思う。
よいものを作りたい。
ものづくりは、関わったことのある人やないとわからんことがあるんやって、昔私の父が言っていたことを思い出した。
よいものを作ろうとするのに必要なのは何だって同じやって。
父は電機系のエンジニアだけれど、演奏家でもある。
そこに、ものづくりの共通項を見つけていたということだ。
そうか、私のアナロジカルな発想は父譲りなのかもしれない。
父は感性は鋭いが、論理を言語化するのは苦手なタイプだ。
まあ、私の論理に飛躍があるのはやむをえないことかもしれない。
拙いながらも、言葉を尽くしてみよう。