今日も絶対的休日。
今日は何も勉強しなかった。
ひとり暮らしは学生時代以来2回目。
まさか2回目が来るとは思わなかったが、私はひとり暮らしが大変苦手だった。
他人と住む難しさも十分に分かったけれど、家事能力も多少は向上したけれど、
でもやっぱり私にひとり暮らしは難しい。
それは、私が自堕落で自律的でないということが大きいと思う。
一緒に暮らす人がいれば、その人たちのペースに合わせて、あるいは合わせないで、
私の予定や行動を考えることができる。
ゼミと卒論だけになった大学4年生の時は、ひどい生活だった。
アルバイトの時間だけは死守したが、それは今も仕事のことはきっちりしたいので同じことだろう。
プライベートで何の基準もないままにだだっ広い時間が広がっているということが苦手なようだ。
私は長子のくせに、どうやらペースメーカーが必要なようだ。
生まれ育った家族の中では、おそらく母が私のペースメーカーだったのだろう。
あるいは父もだったかもしれない。
父は、週末には何をする、今日は何時から何をする、と予定を決めて宣言していた。
夜ご飯は何時、待ち合わせは何時、帰宅は何時、
そういう予定をきっちり決めて、守る人たちだった。
家庭というのはそういうものだと思い込んで育ったが、
全ての家庭がそういうわけでもないと、結婚してみて確信した。
大変自律的な両親に育てられたが、
方や私は、時間に自分の行動を合わせていくのが大変苦手だった。
一番大事なのは、自分がやる気になっているかどうかという感覚的な、というか気分の問題だった。
やる気になれば熱中して取り組んで、寝食を後回しにして止まらなくなるが、
一度止まると動き出すまでエネルギーと時間がかかる。
私は私を操縦しにくかった。
今も操縦しにくい私の特徴はそのままだ。
でも、意識化して言語化したことによって、私は私を操縦しようと決心することができた。
スケジュールを組んだり、習慣的に家事をこなせたり、時間通りに動ける人たちに対して
結構な劣等感を抱いている。
それは裏を返せば、私はそのような自律的な人になりたいと思っているということだ。
それは多分、素敵なことなんだろうと思う。
家事全般、苦手である。
自分の思うほどにはうまくできないからである。
でも、今の私の暮らしの中で家事をすることは、不思議と嫌じゃない。
自分で仕切り直した人生だからだ。
私が選んだ、私の大事な時間だからだ。
安全で安楽で安らいだ家庭を私は持っていたと思う。
良い家族を持っていたと思う。
ではなぜと聞かれたら、相手のあることなのでここで述べるわけにはいかないが、
私がアドラー心理学を学び、その道を進んでいくために必要だったから、というのがひとつの答えである。
私のペースメーカーは元夫だった。
私は本当に好きなように好きなことをさせてもらっていたが、
生活の肝腎なところでは元夫のペースに従っていた。
私はペースメーカーに従ってしまう。
本意でなくても。
そして私にとっては、本意でないことに従うというのは苦しいことだ。
私にとって何が本意であるかを知ってしまった時、
私は安住しないことを選ぶことにした。
徹頭徹尾わがままな私を、元夫はよく許してくれたと思う。
本当にありがたく思う。
今の暮らしは、私が私を私として役に立たせられるように整えたものだ。
明日死んでしまっても後悔はない。
けれど、世界が私を必要としている限り、私は生かされるだろうと思う。
ただし、もうペースメーカーはいない。
これからは自分できちんと自分を管理し、マネジメントしなければならない。
どうせするならば、そのマネジメントを楽しんでみようと思う。
毎日の瞑想と五体投地は続けられているし、きっとできると思う。