我が家

夏休みが始まった。

昨日と今日は、

子どもたちと私のお友だちと4人で、水族館と安野光雅美術館へ旅行してきた。


私は自分の1番のお気に入りを選べない子どもだった。

贅沢やわがままや欲はよいことではなく、

お気に入りを表明するのは恥ずかしい

と思っていた。

それはずっと変わらなかった。


私の好きな人たちとだけ

私の好きなものたちにだけ

囲まれて、楽しく暮らすことなんて

いけないことだと思っていた。


私はアリとキリギリスのイソップ物語が嫌いだ。

本当は私はキリギリスなのに、

私はアリのフリをして生真面目に生きなければならないと思えてしまうから。

そして

アリのフリをする人生はもうやめることにした。


子どもたちが好きだ。

お友だちが好きだ。

水族館が好きだ。

安野光雅さんが好きだ。

そういう私の大好きばかりを選んでも、

私は何も恥じることはないんじゃないかと

ようやく思えるようになってきた。



安野光雅美術館では、数ある安野さんの絵本のうち、

私の1番のお気に入りの絵本の原画展をたまたまやっていた。

『野の花と小人たち』

野の花と自然の美しさに目をきらきらさせて、驚いているいたずらっ子の小人の男の子が、

誰かさんにそっくりなのだ。

その誰かさんを見守り、優しく話しかけ、手をのべる若いお母さんが

私であったらいいなあと思うのだった。


長時間の滞在でさすがに飽きてきた次男が、もう帰ろうとぐずり始めたとき

「ねえ、この小人の男の子とお母さん、しゅんすけとお母さんみたいじゃない?」

と尋ねてみた。

「…!」

急に瞳に光がさして、次男は絵に見入った。

「ほんとだー」

木の実を集めている小人を見ては

「こっちのも、ぼくとお母さんだ。ぼくお手伝いするからね。」

つるのブランコに乗っている小人を見ては

「こっちは、やっほい!って言ってるよ。」

彼岸花によじ登っている小人を見ては

「ぼく竹登りもできるから、この子ぼくだよ!同じ格好できるもん!」

「ね、この絵を見ていると、しゅんすけとお母さんだなって思うから、お母さんはこの絵たちが大好きなんだよ。それで何回も見たいの。」

「うんうん!」


長男がやって来たとき次男が駆け寄って行き

「ねえお兄ちゃん、これぼくとお母さんだよ!」

すると長男は一瞥して

「違うよ」

と言い放った。

「その小人はしゅんすけじゃないよ」

「小さい頃のこうすけかな?」と私が尋ねると、

「そうだよ」と、さも当たり前そうにうなずいた。

「えー!ぼくだもん」

「うん、しゅんすけだよ。それに、小さい頃のお兄ちゃんでもあるんだよ。」

私たちの物語がまたひとつ、生まれた。



少し前に離婚をした。

私は子どもたちと別れてひとりで暮らすことを選んだ。

私のわがままだ。

子どもたちとも元夫ともよく話し合って、これからの私たちの生活について考えて、

子どもたちにとって1番良いかたちを作っていこうとしているけれど

けれども、私が子どもたちを手放したのは実際である。

私は自分自身が離婚した両親の子どもだから、子どもたちの気持ちがわからないわけではない。

私は罪悪感は大嫌いなので使わない。

けれども、本当にこれでよいのだろうかといつも不安が戻ってくる。


先日、アドラー心理学の講座に1年ぶりに参加した。

カウンセリングと心理療法を学んだ。

カウンセラー役もしたが、クライアント役もした。

クライアント役として心理療法を受けて、

子どもたちはこれから、私のお客さまになるのだと気づき、

それはとても幸せなことだと心から思えた。

私の小さなひとり暮らしのアパートで、

この連休、子どもたちは居心地よく過ごしてくれている。

そして共に旅をして、

ああ、帰って来たって感じがするね

と言ってくれた。

新しい、始まったばかりの家だけど、旅から帰るところになった。

もう我が家だ。

子どもたちにとっても、我が家なんだ。


私と子どもたちの大好きを詰め込んだ旅を提案し、連れて行ってくださったお友だちに、

心から感謝している。

彼女の優しさで、

1番のお気に入りを選ぶ勇気を持てるようになってきた。

私は私の大好きな人やものたちを、大事に大事にしていきたい。

たとえかたちは変わってしまっても、きっと美しい物語を紡いでいけるだろう。