I Can’t Get Started

今晩は夜勤。

職場では数日間緊急事態が続いていたが、今晩は妙に静かだ。

寒くなって、建物自体が身を屈めているかのようにしんとしている。

締め切りの近づいている事務作業は多々あるが、まだ余裕があるので今晩は何もしないことに決めている。

時間の経過がとてもゆっくりだ。

 

楽しいことはたくさんあった。

それなりに良い成果をおさめた仕事もあった。

仕事仲間に信頼してもらえるようにもなった。

でも、もうムリだなと感じている。

ここ数日の一連の出来事の衝撃波は、昨晩深夜、残業を終えて家にたどり着くと襲ってきた。

職場では兵士のペルソナで頑張っているから、私は自分の心身の痛みについて鈍感でいられる。

心地良い私の部屋に戻って自分の心身に意識を向けると、今までになく疲弊していることに気づいた。

今すぐに誰かに助けてもらうことができない私は、自分で私を助けなければならない。

私を救えるのは私だけだ。

私の心身を守れるのは私だけだ。

 

そのセリフは、昨日私があの子に言った言葉。

子どもが傷ついていく姿は耐え難い。

もちろん、私のできる限りであの子にとって一番良いことをしたけれど。

そして仕事仲間も深く傷ついているから、話を聴いて、できる限りをやっていますよということを伝えた。

「いつも話聴いてくれてありがとう。もうね、本当に消えてしまいたくなったの。Mさんが居てくれて助かっている。」って言ってくれた。

以前は、私はそういう風に言ってもらえると、満たされたように思えていた。

誰かのヒーローになりたかった。

だけど私は、もうヒーローはやめたみたい。

私がいくら仲良しの職員さんを少しばかり助けられているとしても、だからといってこの悲惨な状況を変えることはできない。

ここに居る限り、この悲惨な状況を延命させる任務から降りることができない。

私にはもうムリだから、やめよう。

何回も何回も、楽しいことや嬉しいことがある度に、もう少し長く居てもいいんじゃないかって揺れていたけれど、今回のことでとどめを刺された。

こんな言葉を何回このブログに書いたかわからないけれど、まだあるんかいってびっくりするほどに、多種多様な悲劇があるものだ。

 

お茶を飲んでお餅を食べて、お風呂に入って、瞑想をして、暖かい布団に入って、

きちんと副交感神経優位の状態になっていることを確認した。

身体はあたたかかった。

よかった。私が本当に消えてしまいたくなるような時は、身体中、心の奥まで冷たくなってしまうから。

まだ私は大丈夫だ。

私は、私の心身を労わることができている。

私自身は何も困ってはいない。ただ、深く傷ついているだけだ。

その差異が言語化できてよかった。

 

それから2人の友だちに、朝になってから話ができるかどうか助けを求めた。

そして今日は珍しく、2人共と電話することができた。

同じ話をしても、2人はそれぞれに違った視点から見てくれるから、気づきがたくさんあった。

そうやって私は現状を分析する。この悲劇の構造を見ようとする。

アドラー心理学を共に学んでいる2人と話をするから、おかげでアドラー心理学的に説明のつくところまで洞察が至った。

ただ、絶望的なことに、どれほど私が構造を(アドラー心理学的に)正しく見抜けたとしても、それは事態を良くするためには何の意味もないのだ。

私自身があの子に関われるときは、できる限りのことをする。そのときの手助けに、この洞察はわずかながら役に立つかもしれないけれど。

でも、ここでは静観しかできない。外部の介入が必要で緊急要請をしているが、母の動きひとつで、「待った」がかかった。

結局、いつもと同じ。何となくおさまったような雰囲気になって、問題は何も解決しないまま時が流れていくのだろう。

今日一日、あの騒動は何だったのだろうというぐらい何事もない様子だったようだ。

それはそれで悪くはないのだろう、けれど…いつまた同じことが起こるかわからない。

 

準備はできている。だけど動き始めない。I can’t get started!

多分こうやってアイドリング状態でいるのが、私にとってのストレスなんだろうな。

結果が悪くても、自分ができる限りの行動をしていられると、私は優越目標に向かえているから大丈夫。

私が何をしても無駄だという事態が、私にとって耐え難いのだろう。

ほんとうに、どこまでも意味のあることを為したいのだな私は。やっかいだ。

 

 

⭐︎⭐︎⭐︎

 

先日、小学生たちを連れてポニーとのふれあい体験に牧場へ行く行事があった。

悪天候だったけれど乗馬体験のときだけは雨が止んで、私も乗せてもらうことができた。

 

賢いポニーは私を乗せて一定の速度で歩いて行く。

運命は、このようにして私を連れていくのだろうと思った。

私は姿勢を正して、リズムに身を任せながら、手綱を握り、私の進みたい方へと誘導していくことができるはず。

完全なる自由ではない。けれど、完全なる管理下でもない。そして、完全なる意思決定でもない。

「柔らかい決定論」を身体で感じた。

車の運転とは違うのだ。車は完全に私が制御しなければならないものだ。私の意思決定がすべてで、すべてが私の自己責任。

でも乗馬には、馬の方の意思決定の部分がある。私が山並みに見とれていても、馬は変わらず進んでくれる。

私はもっと優しい気持ちで、馬と調和しながら、まだ見ぬどこかへと連れ立って行けるだろう。

「同行二人」、その美しい比喩だ。

 

側に付き添ってくれる牧場スタッフの方たちが、「子どもたちみんな優しくていい子ですね、一生懸命に厩舎の掃除をしてくれましたし、ブラシ掛けも蹄の掃除もとても丁寧にしてくれましたし」、と言ってくれた。

昨年は「フン汚いから掃除なんか嫌だ」って言っていた子が、今回は「俺前やったから知ってる!」って言って、掃除のやり方を他の子たちに自慢げに説明してくれて、率先して掃除をしてくれたことを話した。彼の成長に涙が出そうだった。

牧場のスタッフの方たちも、それはとても嬉しいですと言われた。

実はこの牧場のスタッフの中に、私のアドラー心理学自助グループに来てくれている方がいて、その方がスタッフ教育をされていることもあり、この牧場の方たちの子どもたちへの関わりは本当に素敵で安心できる。

この良い環境の中で、子どもたちがたくさん働いて、ポニーたちを可愛がっていて、一緒に来られて本当に良かった。

色々な問題を抱えた子たちだけど、それぞれの良いところを発揮して、みんなが協力していた。

のんびりした子は丁寧に、怖がりの子は慎重に、生意気な子はみんなをリードして、みんなが本当に良い顔をしていた。

みんな、また来たい、年に一度じゃなくてもっと来たいって言って、名残惜しそうにポニーを撫ぜていた。

 

帰所してから上司や先輩たちに話をすると、「そんなに良い体験だったなら、機会を増やしましょう。お金はかかるけれど、こういうことのためにお金は使うべきだから、上と掛け合ってみますね」と言ってくれた。

そして早速、担当職員さんと話し合って、来月の小学生行事の内容を変更して、またポニー牧場へ行く計画に変更してもらえた。

子どもたちが喜んでくれるだろう。私は行けないけれど、きっとまた素敵な体験ができるだろう。

 

 

私はここで、ある程度は意味のあることをできているだろう。

それはそうなんだけど。

この子たちの成長が楽しみだし、まだまだ他にも、良いことはたくさんあるのだけれど、

きっとこれからもここに、私は意味のあることが為せていると確認するために書いていくのだろうけれど、

今こうやって書くことで、凍えてしまいそうだった心があたたかくなったのを感じているけれど、

ここに居るのは今年度限りだ。

良い時間を過ごそう。

 

 

⭐︎⭐︎⭐︎

 

タイトルは、ジャズスタンダードの有名なもの。

母と一緒にジャズバーへHさんのライブを聴きに行ったとき、演奏されていた曲。

こんなに大きなことを成し遂げてきた自分なのに、言い出しかねていて君と始まらなくて意気消沈だよっていう、ビッグマウスな男の愛嬌を感じる歌詞。

今晩は絶望的な気分で書き始めたけれど、書くことはセラピーになる。

YouTubeでジャズを流しながら、あの晩のあたたかかった時間を思い出す。

 

並行して物語を紡ぐ私のペルソナたちが、私を構成する。

悲観的なペルソナの私のことも、大切にしよう。少し抑えつけていたかもしれないね。

私には楽しいことが大好きな陽気なペルソナもあるみたいだから、その明るい物語も大切にしながら、悲観的なペルソナを支えていこう。

悲しいときは悲しめばいい。

でもどんなことがあっても、私は自分を痛めつけるようなことはしないから、私はちゃんと大丈夫だから。

そういう行為がどれほど周りの人たちを傷つけるのか、これ以上ないほどにわかったから。

絶望に浸りたいときは絶望に浸るけれど、それも所詮はひとつの、かのようにの物語。

世界はただ「ある」だけで、そこに特定の意味を見出しているのは私だから。