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今月はオンラインのアドラー心理学の勉強会にたくさん参加できている。

長期療養中だった同僚の職員さんがめでたく復帰されたから、私のシフトにも余裕が出てきたことが関係していると思う。

その方が休んでいる間、その方がいろんな仕事を担ってくださっていたことをありがたく感じていたし、

他の職員さんたちとカバーし合って働くことで、よりチームとしての一体感を感じられた。

みんな、心から帰ってきてくれてよかった!って思えているし、

その方ご自身も、帰ってこれたことを喜んでおられるように見える。

でもまさか、その方は自分が職場復帰したことで、私の勉強が充実するようになったなんて思いもよらないだろうから、

あることが何に影響しているかなんて、ほんとに分からないことだらけだなと面白く思う。

 

私たちは世界に組み込まれている。

私の職場の人たちとの日常も、私のアドラーを学び合う仲間たちとの冒険も、私の子どもたちとの生活も、

全て私を介して結びついていて、互いの波紋が互いに響き合って相互に作用し合っている。

私は、世界をそうであるかのようにとらえている。

 

そうすると、私は自分を絶望の淵から救い出すことができる。

私が誰かの幸せを祈ることが、決して無駄ではないと思えるから。

本当に、そうだ。

偶然なんてない。

だからきっと、ずっと流していたYouTubeから、今この瞬間、Butterfly Effectという曲が流れ始めたのも、偶然ではないのだろう。

BGMとして素晴らしいタイミングと選曲だ。

こうやって、世界からのメッセージを私は受け取ろうとしている。

まるでまるで、リニアル(単線的)な物質主義的文明と違う世界観で生きている。

 

こういった世界観のことも、フレームワークと呼ぶようだ。

ある枠組み。

それは仮想的で、つまり変更可能なものだ。

ある枠組みを意図的に変更しようとする操作が、カウンセリングなのではないかなと思う。

考え方を変えること。

事実に対する意味づけを変えること。

物語を変えること。

それら全て、フレームワークという考え方から説明することもできると思う。

そして、全てのフレームワークは仮想的で、変更可能であるという前提を認めるということは、

アドラー心理学の基本前提の仮想論に示されている。

 

 

社会適応が良いということは、ある一つのフレームワークにしっかりとはまれる、

求められる役割を求められたように演じることができる、ということなのかもしれない。

良い生徒、良い子ども、良い社会人、良い妻、良い夫、良い母、良い嫁、などなど。

書いていて息苦しくなる私は、やはり社会適応はあまり良い方ではないんだろう。

しかも日本の社会では、そのフレームワークははっきりと言語化されていなくて、空気を読みながらはまっていくことを望まれがちだから、なかなかに難しい。

それならば、どうして私が今良い職員という役割にあまり苦労せずはまれているかというと、

それは仕事を、この施設職員という役割を演じること、ロールプレイだと思っているからに違いない。

つまりこれはひとつのフレームワークであって、

私には他にもいくつものフレームワークがあって、私の全てがこの役割に縛られるわけでもないことや、

必ずしも求められる役割を演じなくても、私は良い職員ではなくて出来の悪い職員でいることも選べることを、

そうであるかのように信じているからだ。

だから私は、自由でいられる。

自由とはつまり、私が選べるということだ。

 

 

ただ、この世界というのは私に対して、ひっきりなしに要請を送ってくる。

否応なしに課題に直面させられる。

 

カウンセリングに来られるクライアントさんは、その課題に困って来られる。

どんな壮大な悲劇、どんな絡み合った複雑な事態であっても、

カウンセリングで行うことは、その課題に取り組むかどうするか、それをクライアントさんが選ぶお手伝いをするだけだ。

選ぶのはクライアントさん。

そしてもしも取り組むのなら、どうやって取り組むかを決めるお手伝いをする。

決めるのはクライアントさん。

 

 

 

ひとつの物事に対して、複数のフレームワークを作ることができる。

私たちは、いつでも好きなフレームワークを選ぶことができる。

サイコドラマの劇的なところは、その複数のフレームワークを、極端なお芝居で表現してみせるところにあるのだと思う。

ひとつところに居ながら、ある瞬間を過ごしながら、私は同時にいくつものフレームワークを重ね合わせて生きることも、きっとできる。

それがサイコドラマの面白さなのだと思う。

私と相手役は、例えば娘と母でありながら、同時に侍女と姫でもあるのだ。

 

そのフレームワークの中である役割を演じるとき、ペルソナを使っているのだろう。

手持ちのペルソナからあまりにかけ離れた役割は、ちょっと演じることが難しい。

だから、ライフスタイルにはある許容範囲があることもわかる。

しかし、治療というのは、そのライフスタイルの許容範囲を超えてみるところにあるのだろうな。

留まり続けたい、フレームワークを固定しておきたいライフスタイルに、

フレームワークはいつだってどんなものだって変更可能なんだよって、揺さぶりをかけることが治療なのだろう。

 

柔軟であること。受け入れること。

それは、世界と自分が一体であることを信じていれば、きっと怖くないと思う。

すべては私の思い込みなのだから。