今日からはしばらく夏休みです。
今日は、アンリ・エレンベルガー著『無意識の発見』を読みました。
2月ごろから読み始めて、ここ2ヶ月ぐらいほとんど読めていなくて、
今、やっと下巻のフロイトの章が終わるところです。
この章が終われば、やっとアドラーの章です。
深層心理学の歴史を、たくさんの人の伝記的にまとめてある本で、
たいへん興味深いです。
アドラーはいきなりアドラー心理学を思いついたわけではなくて、
精神医学や魔術や催眠療法など、さまざまな治療の歴史があり、
その試行錯誤の研究の歴史の上に、発展してきたものだということがよくわかります。
フロイトの重要なアイディアをいくつか取り入れています。
(ただ、アドラーはフロイトの共同研究者だった時代がありますから、
これらが本当にフロイトの独自のアイディアであるのかどうかはわかりません。)
たとえば「Floating attention」や「治療抵抗」、「徹底操作」、「教育分析」などの技法や概念ですが、
これらを、アドラー心理学の理論の上に、アドラー心理学の思想に向かって使うので、
フロイトの使い方とはまったく違うものになります。
『無意識の発見』を読むと、フロイトの精神分析も、催眠療法の批判的な発展として形作られてきたことがわかり、
よりよい治療をしようというフロイトの適応努力の結果なのだろうと感じられました。
ただ、精神分析はこの時代の制約もあったと思いますが、
治療者が上でクライアントが下という構造が、明白な治療法だと思いました。
また、とっても痛い治療だなということも感じました。
(ただし現代の精神分析は、フロイトの考えを批判して発展していますので、この本に書いてある精神分析とは異なっていると思います。)
治療者が上でクライアントが下という構造が、治療の上でどうしてもあったと感じます。
これは時代の限界だと思います。
1900年代はじめのウィーンで、
アドラーが、男と女が平等であり、大人と子どもが平等であり、治療者とクライアントも平等な人間だという考えのもとに
治療を行い、アドラー心理学を作ったのは、
信じがたいほどに時代に縛られなかったことであると思います。
だけど、現代のアドラー心理学は、アドラーの生きた時代よりももっと、人間の認知について進んだ研究や哲学を取り入れています。
そのため、治療者にわからないことがあるということ、クライアントにしかわかりえないことがあるということや、
治療に関わる限り、治療者はクライアントと無関係ではおれず、そこで治療者自身も物語に参加してしまうということ
などの考え方に基づいて、
よりクライアントと治療者が平等になったと思います。
そして、より痛くない、物語としての治療が行われるようになったと思います。
私たちは歴史の上に生きています。
過去から学ばないのは愚か者です。
ですが、過去に縛られるのも同じように愚かなことだと思います。
アドラーの言葉を大切に読み、使おうとするとき、
その言葉をきちんとアドラーの生きた歴史の時点に置いて考えているかどうかが、
アドラーの文脈をきちんと理解しているかどうかが、
とても大事だと思います。
ウィトゲンシュタインの言うように「意味は文脈に規定される」のです。
その文脈は、時代という文脈でもあり、アドラーの思想という文脈でもあるでしょう。
そういう文脈をきちんとおさえずにアドラーの言葉を使うとき、
それを使う個人の私的な文脈に置いてしまう危険性が伴います。
私たちは、古い時代の人たちよりも賢くなっていかなければならないと思っています。
先達の試行錯誤を歴史から学び、
先達の知恵を学び、
そうして学ぶことによってのみ、
より良いものを作り、継承していけると信じています。
学問は、完成されることはないと思うのです。
けれど、時代を超えて、人々の役に立つものが学問です。
今を生きる私たちが、磨いていくべきものだと思うのです。
そうすることで次の時代へと手渡すことができると思うからです。