使えない魔法

今日はアドラーの著作のオンライン抄読会だった。

 

『人はなぜ神経症になるのか』という本をふたりで学んでいる。

1年以上かけて、まだ11章中の5章の真ん中である。

お互いの事例を出し合いながら、毎回新たな学びがあり、自分の治療者としての実践にかなり役立っていると思う。

 

自分が治療者としての実践を積んでいけばいくほど、治療者としてのアドラーのすごさを実感する。

恐ろしく洞察力が優れている。

そしてどこまでもクライアントの有用な側面を見続けていると思う。

治療者の気をつけるべきことなども、様々に書いてあって、彼が100年前の時代の人であることを忘れてしまう。

まったく現代にも通じることばかりなのだ。

 

治療者は、自分のライフスタイルが混入しないように気をつけなければならない。

自分が評価されることを望んではいけない。

クライアントを正そうと強いてはならない。

けれども、クライアントが共同体感覚を育成させられるように、やさしく導かなければならない。

どうやって共同体感覚を育成するかというと、

クライアントが治療者との関係性の中において、良い関係を学ぶことによって、育てていく。

そのために治療者は自分の価値観を離れ、自分への執着を捨て、クライアントを正そうという目標を捨てなければならないのだ。

治療者がクライアントを裁いている限り、決してクライアントさんは勇気を持って自分の人生を歩んでいくことはできないだろうと思う。

 

以上のことは、私は野田先生から学んだことだ。

そのことが、まったくそのまま、アドラーの著作に書かれている。

何度も読んだけれど、私はようやくアドラーの言葉が、野田先生から学んだことと結びつき、自分の実践と結びついてきたと思えるようになった。

アドラーや野田先生は極めてあっさりと言う。

その言葉の本当の意味を、私は今、それがどれほど難しく高度なことであるか、感じている。

野田先生は私に、「あとは場数です」とおっしゃったけれど、必要なのは場数だけではないだろう。

どこまでもどんなときでもクライアントさんと対等で平等な関係を築いていく、その構えは、言葉だけではわからない。

クライアントさんと平等な位置に立ち続けるためには、治療者自身がそれを保てるようにたいへんな勇気を持っていなければならないと思う。

そして、クライアントさんが必ずご自身でこの困難を乗り越えていけるはずだと、どこまでも信じる勇気を治療者が持っていなければならないと思う。

私がこの方を救うのではない。

私のお役目は、この方が自分自身を救うために、この方が気づいておられない共同体感覚を呼び覚ませるように、わずかなお手伝いをすることだ。

 

 

治療抵抗が起こるときは、必ず治療者である私が悪いのだ。

クライアントさんのことを正しく理解できていないか、あるいは、クライアントさんを裁いているか、何かを強いているか、

そういう私の誤った行動によって、クライアントさんが身体や言葉で教えてくれるのが抵抗なのだと思う。

だから、抵抗にあったとき、私の誤りに気づかせてくださってありがとうと思うようになった。

もしそのまま進めてしまったら、きっとクライアントさんのためにならない。

「抵抗にあったら、引っ込むこと」。

野田先生は、はあはあそうですか、などと仰って、さらっと話題を変えておられたように思う。

そうするとクライアントさんは、あっさりと抵抗をやめて、機嫌よく話しをされる。

 

私もそうだった。

一度、野田先生の講座で、エピソード分析のデモをさせてもらったことがあった。

野田先生がカウンセラー役、私はクライアント役。

私的感覚を出してもらうときに、うーんと私が考え込んだとき、

「なんかややこしそうやな、ここは触らんとこ。これはどうですか?」

と仰った。

あ、助かったと感じ、新しく出てきた「これ」について負担なく考え始めることができた。

 

久しぶりにあの日のデモを思い出した。

クライアントは、カウンセラーに導かれている。

そのことをクライアントとして私がメタで意識したとき、とても安心感を感じた。

私が自由に考え、話し、決めていくことができるのだけれど、

カウンセラーがちゃんと私を守ってくれていると、ずっと感じていた。

カウンセラーは道筋をたくさん選択肢として持っていて、いつも私の様子を見ながら、どれがより良いのかと考えてくれているんだって、

私と一緒に歩いてくれているんだって、感じた。

 

 

私が治療者として、パセージのメンバーさんたちやカウンセリングのクライアントさんたちに対して、

どれほどアドレリアンセラピストとして適切な働きかけができているかは、わからない。

ある程度の有効な働きかけはできているだろうけれど。

私の目指しているところは、野田先生の魔法のような治療の境地なのだ。

きっと到達できない。

きっと到達できないけれど、そのような高い理想のモデルがあることを私は幸せに思う。

私はいつまでも、その理想へ向かって、努力し続け、成長し続けることができるから。

もう何にも惑わされることはない。

私のすべきことが何であるかは、明白だから。