何かが動き出す時はいつも並行して速度を増していく。
このまま何かが始まっていくだろうという予感がある。
またその波をつかまえたところだ。
今日は絶対的休日。
今日は充電をする日。
ダメ元で声をかけた友だちとお茶をして、色んな話をした。
それから美容院の予約までの空き時間、ひとりで図書館へ行ってヘルマン・ヘッセを探した。
ある日、お店の本棚に置いてあったヘッセの『メルヒェン』を手にとった。
そこで落語会が始まるまでの20分ほどの間、読んでみようと思っただけだったのに
周りの全てが消えてしまうぐらい『アウグスツス』という短編に入り込んでしまった。
しかしまだ最後まで読めないままでいた。
今日行った小さい図書館には『メルヒェン』はなかった。
代わりに、ヘッセの『少年の日の思い出』があった。
中学の国語の教科書に載っていたあの蛾の話だ。
小さな生き物への興味と興奮が、他の物語にも描かれていた。
細やかな描写が美しいと思った。
孤独を知っている人の物語ばかりだと思った。
ヘッセはアドラーと同時代人。ドイツ南部の生まれだ。
アドラーの生きた時代や、背景の文化を知りたいと思う。
アドラーは芝居やオペラの舞台を観に行くのが好きだったそうだ。
彼の治療法が芝居がかっているのは、魔法のようなのは、舞台の影響が大きいのだろう。
野田先生も、良いカウンセリングをするには良い芝居を観なさい、良い小説を読みなさい、と仰った。
良い物語をたくさん味わいなさいと仰った。
良い物語を知らなければ、治療はできないと思う。
今、大変な状況にいる人たちの福祉の現場に居る機会を得て、本当にそう思うようになった。
福祉サービスも一般的な医療サービスと同じように、AかBかの選択を繰り返すチャート式で、次に打つ手が自動的に決まっていく。
多くの人をさばいていくには効率の良い方法だろうけれど、人の人生の選択は、そんな風にして流れ作業のように決めていくべきではないと思う。
90歳を超えたお年寄りも、リハビリ施設に行ってリハビリを頑張りましょうねと言われ続けることを、私は美しい人生の終わり方とは思えない。
住み慣れた家で、家族と共に、だんだんと輪郭がぼやけていくようにして亡くなることが人間らしい終わり方だと思う。
治療は、ひとりひとりにとって違うものであるべきだと思う。
ひとりひとりの物語が違うように、より良い物語へ変えていくプロセスも、ひとりひとり違うものになるはずだから。
福祉職が行う「支援」というものを、私はよくわかっていない。
「信頼関係の構築」というものも、よくわかっていない。
もしかすると私の職場の人々も私も、目指す理想が同じところにあるのかもしれないが、
そのために私ができることは心理学的な「治療」になってしまう。
だとしても、まあいいだろうと思い、
最近私は、アドラー心理学の技法を利用者さんや子どもたちに対して、密かに、しかし積極的に使おうと決めた。
小学校高学年の女の子の登校支援トークンは、ちょっと緊張する検討会議を無事に終えた。
そしてここでできる範囲の中で、私の方針で進めていけるようになった。
トークン、つまり登校させるためにご褒美でつろうという考え方は私は嫌いだ。
まず登校するかどうかは子どもの決めることであって、他人がどうこうできる問題ではない。
しかし、登校して学校生活に馴染むことは、少なくともこの子にとっては、社会で生きていく上でとてもとても大事なことだと思う。
そしてこの子はちゃんと登校することができると私には思えるのだ。
それなのに、学校の先生もうちの施設の職員も、親も、周りの大人がみんなして彼女の顔色を伺いながら、無理しないでいいからと甘やかして、
挨拶登校とか言って、毎日先生に顔を見せに行くだけでもいいから行こうとかいうところまで目標を下げていってしまうと、
彼女はもっと苦しい状況になってしまうって思うのだ。
だから「私は、6校時まで毎日行くということを目標に掲げたいと思っているんです、今すぐ達成することは難しいとしても、彼女にはそれをきちんと伝えたいと思います」と、
会議で発言した。
「Mさんの思いやご意見はわかりますけど、でもそれはMさんの想像でしかないですよね。
もっとOちゃんと関係を築いて、思いを聞いて、押し付けにならないようにやっていけばいいと思います。」
と、検討会議でベテラン職員さんに言われた。
確かに私の洞察は、私の想像にしかすぎない。
そう言われてしまえば「かのように」心理学なんて全部想像の産物だ。
でも私1人で「支援」するわけではないから、職場のみなさんの合意と協力を得なければならない。
私が彼女とどのように話をし、彼女の話をどのように聴いているか、彼女がどのように話してくれたか、私と彼女の関係性がどのようなものであるか、
それらは、私は職員さんたちみんなには伝えてはいないから、
ああ確かに私がこれまで彼女に対して何をしてきたかは、みんな知らないんだ、と気づいた。
「自分はいまいちまだOちゃんのこと理解できていないんだけど、MさんにOちゃんは自分の気持ちとか話してくれるんですか?」
と上司に聞かれて、そうだOちゃんはかなりペルソナ使い分けるのが上手な子だから、私にしか見せない顔もあるんだと気づいた。
確かにOちゃんはあまり自分のことを話すことはないタイプだ。
嫌なことははっきりと嫌と言い、不機嫌な態度で周りを緊張させる。
上手に場を作って、彼女の心をほどいて、上手に問いかけなければ、彼女の気持ちを知ることはできない。
でもきちんと今からお話ししてもいいかどうか尋ねて、了承を得て、
パセージのお作法通りに、彼女のことを知りたいなと思って平等で対等な立場で尋ねれば、Oちゃんはきちんと、穏やかに応えてくれる。
「ええ、色々なことをよくお話ししてくれます。」と私が答えると、
「あ、そうなんですね!それなら、この方針でいいと思います。」と、みなさんの合意を得ることができた。
学校に毎日朝から6校時まで行けるように、私たちはOちゃんを応援したいんだよと、
真っ直ぐに彼女に伝えてみた。
「夏休み前は、プリントやったら学校に行かなくても、ご褒美のお出かけができるって思ってなかった?」っていたずらっぽく聞いたら、
「えへへ」とOちゃんは、バレたか、という顔をして笑った。
学校は楽しいこともあるけど、なんとなく行きたくないんだっていうことを教えてくれた。
そりゃそうだよね。
仲良しのお友だちと別れて、親の都合で転校してきた学校だ。
休みがちになったから、勉強もどんどんわからなくなってきている。
5年生の女の子にとったら、危機的状況だ。
…周りの大人たちは、彼女を憐んでいるのかもしれない。
それは彼女へのあたたかい思いからかもしれないけれど、その憐みやそこから来る遠慮や甘やかしは、彼女にとって良いことではないと私は思う。
この理不尽で不都合な人生を、あなたも私も、生きていかなきゃいけない。
私はあなたのために何ができるかなって考えることしかできない。
でも、そうやって一緒に生きていこう。
そんな風に思って、彼女と向き合っていたい。
夏休みが明けてからの9日間、Oちゃんは、午前中だけだけれども、毎日登校することができた。
母とバトルすることもなく、スムーズに行けたと話してくれた。
今回は1週間区切りでのご褒美のお出かけということに設定していたので、昨日私が一緒に出かけた。
猫を触っているときのOちゃんは、とても優しい顔をしていた。
昔猫を飼っていた話をしてくれた。今は飼えないのが残念だと言う。
小さい魚とかでも飼ったらダメなのかなあと言う。
小さな生き物たちには、人を癒す力がある。
色々な不自由が、この施設にはある。
その中で、私には一体何ができるんだろうと、本当に、くだらない仕事だと思う。
Oちゃんはぬいぐるみもとても好きな子だ。
お出かけの後、今週の振り返りと、次の目標について話し合いたいんだけどいいかな?と聞くと、今からでもいいよと言ってくれた。
調理室のベンチに横に並んで座って、お出かけ楽しかったね、と私は言った。
Oちゃんは鞄から猫のぬいぐるみを取り出した。
ちょうど子猫ぐらいの大きさ、重さだ。
「こんな顔して寝てる子猫いたね」と私がぬいぐるみを撫でると、Oちゃんも笑った。
次の目標などを話し合って、支援計画を立てることができた。
私は子猫のぬいぐるみを使って、Oちゃんの膝を撫でたりしながら言った。
「Oちゃんも猫ちゃんみたいで、じっと見つめてくれるけど私には何を考えているのかよくわからないんだよね。」
Oちゃんは笑った。綺麗な目をしている。可愛いなあと思った。
「なんでもお話ししてね。私はOちゃんのお話し、聴きたいなって思ってるから。」
「うん。」
「私の猫への接し方見てたでしょ。嫌われたくないから、あんまり自分からは触りに行かないねん。」
「うん、そうだった 笑」
「でも来てくれたら、そーっと撫でるの。向こうに行っちゃったら、追いかけないし。でも、あきらめないで、また来てくれるの待って、またそーっと撫でるの。Oちゃんに対してもそうやってるから。」
笑うOちゃん。
「それから、次トークンの振り返りするときも、またこの子とか連れてきてくれる?」
一瞬びっくりした顔をして、それから、わかったと笑って答えてくれた。
「前、卓球台の下でお話ししたの覚えてる?あの日もぬいぐるみ何匹かいたよね。」
「あ、そうだったね。しば犬と、ウサギと、小さなネズミだったかな?」
「ね、この子たちに協力してもらおう。こうやってたらお話ししやすいから。」
Oちゃんはにこにこしてうなずいて、もう少しぬいぐるみと戯れてから、部屋へ戻って行った。
ぬいぐるみを使うと、サイコドラマで使うエンプティーチェアのような効果があるんだと思う。
ぬいぐるみを動かすことで、自分の考えや感情を出しやすい。
私は自分の子どもたちと喧嘩した後などに、特によく使っている。
普段もうちの子どもたちはぬいぐるみが好きなので、彼ら自身が使って遊んだり私に話しかけたりすることも多いけれど、
彼らが元気のないときには特に大きな効果を感じる。
パペットセラピーと勝手に呼んでいるんだけど。
あまりに遊びのようなので、支援内容を記録する日報にぬいぐるみのことは書かなかった。
これは「支援」ではなくて「治療」だと思っている。
自分の世界に閉じこもりがちな彼女の心をほぐしていくことは。
本当は、学校に行くことは目的じゃない。
彼女が居心地の良い居場所を作っていくことが大切なことだ。
そのために、学校に行くのは手段だ。
支援計画を真面目に考えだすと、手段と目的がよくわからなくなってしまう。
真っ直ぐに、良いものを良いと思うと、学んでほしいことを学んでほしいと、伝えていきたいと思う。
職場のみなさんはよく「何が正解なのかはわからない」と言う。
それは本当にそうなんだろうと思う。
良い物語を描けないところに、良い方向性なんて見出せるはずがないもの。
だから、私は、みなさんとは考え方が違うけれど、もうあまり気にせずに、
ろくな「支援」はできないかもしれないけれど、「治療」に向かうような働きかけをしていこうと思う。
それが私にできることだと思うから。
来週は久しぶりに、我が家でなくて公民館で自助グループの定例会をすることになった。
初めての方も来られる予定だ。
ほんの少しだけでも、ほんのわずかだけでも、アドラー心理学が広まっていくために私にできることをしようと思う。
ほんの少しだけでも幸せな関係を築ける人が増えていけば、ほんの少しだけでも良い社会になるから。