今日は久しぶりに予定がぎっしりだった。
というより、シャバに出る用事をまとめて済ませたかったので、詰め込んだのだった。
病院に行ってワクチン接種の予約票を受け取り、
郵便局に行って振り込みや郵送をして、
市役所に行って書類を入手し、
放送大学に行って成績証明書を申請し、
幼稚園に行ってコーラスの練習に参加して、
お友だちとランチに行った。
そして夜はベイトソンのオンライン勉強会。
よく歩いた。よくしゃべった。
ちなみに昼寝もした。
体力はついてきていると思う。
以前の私なら、こんな心地よい疲労感を感じることもなかったと思う。
五体投地のおかげかな。
身体に意識を向けることを、私ははしたないことだと思っていたようだが
今はそうは思わない。
私という個人の容れ物である身体は、大事なものだ。
できるだけ長持ちして使いやすい状態を維持できるように、メンテナンスが必要だと思うようになった。
ただ肉体の快楽のために環境を整えるわけではない。
私の身体は本来、バランスを保って生きるための賢さを備えている。
生命体とはそういうものだ。
それを私が、理性でもって調和を乱すのだろう。
身体の声に耳を傾けるという比喩の意味が、少しずつ理解できてきた気がする。
最適値、恒常性の保持の話がとても興味深かった。
啓蒙主義思想を根に持つ思想は皆線形的で、もっともっとより多いことが良いという方向性へ突き進む。
それは非生物学的だとベイトソンは批判する。
では生物学的とは何かというと、それが恒常性の保持された、正と負のフィードバック機構を備えた、全体として調和の取れた、有機的な世界のことなのだ、と私は理解している。
落ち込み、煮詰まり、動き出せない時間がある程度続くと、
不思議とその滞った流れを動かす出来事がやってくる。
それはしかし、動かずに考え続けていたからこそ、私にはより輝いて見え、ありがたく受け取ることができる。
そして流れを動かす出来事たちは、図ってでもいるかのように、ある方向へと私を後押ししてくれるのだ。
私はその流れを信じようと思っている。
抗わずに、私にできることをしてみたい。
世界に組み込まれている私が、今はそこに所属の場があるということだと思うから。