今日は絶対的休日だった。
朝は夫が子どもたちと買い物に行ってくれて、
昼から男3人でドライカレーを作ってくれた。
先週も同じように朝買い出しに行ってくれて、
昼から男3人でクリームシチューを作ってくれた。
そして日曜の朝はたいてい、夫がフレンチトーストと温野菜のサラダを作ってくれる。
私には優雅な休日である。
『イデオロギーとは何か』の勉強を少し休憩していたのだが、昨日再開した。
ベイトソンを学んでいるおかげで、
小難しい内容をより複雑に表現しているような著者の意図や意見が、見えやすくなってきた。
著者は論理階型の混同によって生じる問題について言及し続けているんだ!と気づいたときは感動した。
賢い人たちは、言葉づかいは異なるかもしれないが、ベイトソンの問題意識を部分的には意識しているようだ。
ベイトソンが特別風変わりなわけではない。多分。
時代の先へ進み過ぎていただけなんだろう。
イデオロギー的な言説とは、
・事実の一部分だけを取り上げて
・意見を意見とわからないように伏せて、あるいは意見であることに無自覚で
・表向きの言葉通りのメッセージでないものを人々に伝える
そういうような言説なのかな、というのが今の段階の私の理解である。
価値絶対的だ。(それもおそらく、実践的価値絶対的立場だろう。)
そしてイデオロギー的な言説が使われる場面はたいてい、自分の反対する立場を批判する目的で使われる。
つまり、相手を「イデオロギー的だ」と言って攻撃するのである。
自分のことをイデオロギー的だと言うことは、まず、ない。
私はアドラーの弟子になりたいと思うから、自分の支配性を手放そうと思う。
相手を批判する冷徹な目を私は持っているが、その目はいつも自分に向けていようと思う。
表出する言葉は、いつも事実の一部分しか表せない。
私は嘘はついてはいないが、私の意見を表してもいないのだから。
特に書いた言葉は、あらゆる意図や思いを隠蔽することができる。
隠蔽したままで、人々にメッセージを送ることができる。
言葉は信用ならないものだ。
言葉の意味はコンテクストに依っている。
コンテクストを正しく読み取れなければ、意味を正確に理解できない。
そして、正しくコンテクストを読み取れないように工夫を凝らした言説もある。
その人の言葉でなく行動を見よと言ったのはアドラーだが、
私は行動と、できるだけ言葉を一致させて、わかりやすく言葉を使っていきたいと思う。
わかりやすい人でいたいと思う。
イデオロギー的になってしまう自分を見張っていたいと思う。