毎日アドラー心理学のオンライン勉強会に参加している。
来週も5日連続ぎっしりオンラインの予定が埋まった。
「共同体感覚とかのように」という野田先生の論文があるが、
この2つの指針を持つことができてよかったと思う。
この反対は、「自己執着とイデオロギー」ではないかと思う。
9月に入ってから、世の中が騒々しい。
政治と、皇室と…
私が偉そうなことを言えた立場でないことはわかっているが、それでも、今の状況はあまりに問題だと思う。
愛することを止めろとは、誰にも言えないことだと思う。
関係を断ち切れと言うことも、誰にも言えないことだと思う。
でも、「結婚してはいけない」は、言えることだと思う。
プリンセスに限らず、そういう場合は多くあることでしょう。
幸せが結婚という形でしかなされないというのは、1つの思い込みだと思う。
確かに結婚もひとつの幸せの形式だと思うけれど、
結婚という形をとらないで幸せを築くことだって人間には可能だ。
あの人は、結婚しないという選択をしてもなお、我々の大切なプリンセスを愛し続けることを誓えるんだろうか。
もしもそれができるんだったら、ここまでの問題にはならなかったんじゃないだろうか。
結婚しようというのがそこまで大きな意味を持ってしまうのかと驚いた。
でもそれは愛の証明なんかとは全く違うと思う。
プリンセスの存在は、ただその当人の自由にできるものではない。
この国の歴史と社会の中にどうしようもなく組み込まれて、がんじがらめの、
だけれど国にとっては何よりも大切な物語だと思う。
その存在を手に入れたいのなら、それなりの代償が必要だ。
少なくともこの国では、今は望まぬ政略結婚をさせられることはないのだから、
結婚という形にとらわれずにただ2人の関係を築いていけばいいのに。
そうでないと、結婚にこだわり続ける限り、プリンセス自身ではなくその家の方に関心があるのだろうという推量を覆せないと思う。
これはただ2人の問題ではない。
我々がこれを単なる恋愛の問題に矮小化してしまうことが、危険だと思う。
この国の大きな物語の中で起こっている事件だ。
女性宮家の問題と切り離せない問題であるし、どうか古事記読んだり万葉集読んだりしてみましょう…
道ならぬ恋なんて、万葉集でも多く歌われている。
そんなのはどうでもいい話だ。
恋愛至上主義を推し進めようとするこのリベラルの思想が危険だと思う。
という色という煩悩の一方で、
権力意思という煩悩がはっきりと見えた政治のニュース。
国のためにとか信念のためにとか、自分の不利益をかえりみない決断を、
そういう物語を私は求めているのだけど、なかなか見ることができない。
何者でもない私が信念のために死のうが生きようが、大した意味はないのだろうけれど
「共同体感覚とかのように」を指針として生きていけることを幸せに思う。
ニヒリズムと実在主義がリベラルという仮面を被って蔓延している。
その道の先に、幸せはないと思う。