今日は野田俊作ライブラリのオンライン勉強会だった。
今日は「愛するということ」という野田先生の講演を文字起こししていただいて、みんなで読み合わせながら学んだ。
愛するということは、行動なのだと皆さんのお話を聴いていて感じた。
手間をかけるということ。
相手のことを思いながらはたらくこと。
自分のためにだったら面倒なことも、相手のためにしているときは、その瞬間が幸せ。
たとえその手間に相手が気づかなくても構わない。
例えば私は、普段は3日に一度ぐらい大量に食事を作って、それを食い尽くしていくという
効率と栄養を主眼にした食生活を送っているが(知人の男性から、ほとんど男ですねと言われた 笑)、
子どもたちが来てくれると、毎食毎食、食事を作っている。
そしてその準備は全然面倒とは思えなくて、料理をしているとき、ああ幸せだなと思うのだ。
たとえ彼らがお腹がいっぱいであんまり食べてくれなかったとしても、
あ、これは苦手な味です…とか言ってお口に合わなかったとしても、
それはもちろん、美味しい!と言って喜んで食べてくれるのが一番嬉しいけれども、
でもそういう反応は、実はおまけのようなものだ。
彼らのためにご飯を作ってあげられることが私の幸せだ。
そして、これが愛することなんだって、わかった。
「愛することって、お手軽じゃないんですね。考えたり言ったりするだけのお手軽なもんじゃないんですね。」という感想をお聴きして、
愛することは形に表すことなんだとわかった。
ある母娘がいて、どちらも愛する夫が病院や施設で暮らしていた時期があった。
母親は、夫が亡くなった後、
こんなに早く亡くなってしまうんだったら、もったいながらずにもっといい服を着せてあげてたらよかったわ。と言った。
その人は、十分にこざっぱりとして良い服を、いつも夫の部屋に準備していたのだけれど。
娘は、夫が入院になってすぐ、
本当に忙しくて大変。パジャマにアイロンもかけないといけないし。と言った。
アイロンがけは必要なのかと聞かれ、
当たり前じゃないの、だってちょっとでも気持ちいいでしょ。それに誰が来られるかわからないんだし。と答えた。
気の合う母娘ではなかったようだが、愛の形は似ているなと思った。
その形を、今、私は美しいと感じる。
きっと夫たちも、彼女たちの愛を十分に感じていたと思う。
彼女たちの愛の形を思うとき、私は万葉集の柿本人麻呂の歌を思い出す。
「淡路の野島の崎の浜風に妹が結びし紐吹きかへす」
万葉の当時、奈良の都から淡路島へ行くのは命がけの船旅だった。
やっとの思いで淡路に着いた時、出発の日に妻が結んでくれた着物の紐が風にひるがえる。
それを見て、夫が妻を思って詠んだ歌だ。
犬養孝先生は、万葉の愛は観念的な愛じゃない、もっと具体的なんだとおっしゃる。
妻が夫を待つのだって、あの人どうせ遅いでしょうからなんて、寝て待ってたりなんかしませんよ、
みんな外へ出て、爪先立って、寒くても雨や雪が降っていても、ずっと待っているんですよ、とおっしゃる。
愛するということは行動することだ。
「ありつつも君をば待たむ打ちなびくわが黒髪に霜の置くまでに」
仁徳天皇の皇后、磐姫皇后の歌。
寒い夜空の下、髪に霜が降りてもかまわずに待っている。
もしかしたら、こうして凍えながら待っている間、女たちは幸せだったのかもしれないと思った。