今日は野田先生の論文のオンライン勉強会と、
アドラーの著作のオンライン抄読会だった。
生活を見直している。
そういえば、全くもってドイツ語と英語の勉強ができていないことに気づいた。
臨床についての勉強は、意識しないでもできるような環境を整えられたが、
(オンラインでご一緒に学んでくださるみなさんに感謝!)
どうやって勉強していこうか。
私は怠惰なので工夫が必要だ。
思想面の勉強をしなければと思って、少し前から共産主義、社会主義についての本を読み始めた。
どうやら多大な期待と大いなる誤解をかき分けなければ、全貌が見えないようだ。
岩田温という政治学者がおられる。
お若い方だが、たいへん硬派で、いい意味で古めかしい。
政治哲学や政治思想の勉強になるので時々YouTubeで岩田温チャンネルを見ている。
それから私は竹田恒泰チャンネルも見ている。
岩田先生や竹田さんの話を聴いていると、共産主義が左側の全体主義であるということ(右側の全体主義はファシズム、ナチズムなど)がわかるが、
見取り図が書けたところで自分の言葉にはならない。
本を読んでも、何が書いてあるのかわからない。
これもいつもと同じことだ。
このテーマについて何冊も何冊も読んで、繰り返し読んで、
それである程度慣れた頃に、何か見えてくるのだろう。
思想に関する本を読む上で厄介なのは、著者や訳者があるイデオロギー的信念を持って書いている場合が多いことだ。
著者の価値観が、あたかも事実であるかのように語られていないかどうか、
気をつけながら読まなければならないと思う。
もちろん無色透明な物書きなんていないだろう。
けれど誠実な物書きは、言論人は、自分の立脚する立場を明らかにして語る。
私は思想的には保守である。
保守というのは、その国や地域の継承してきた伝統や文化、慣習を大切にするという立場、としていっている。
着物の着付けはできないし、お節料理も作れないし、お茶もお花も嗜んでおらず、お琴もひけないし、行儀作法もなってないが、
こうやって羅列すると日本文化の中で生きているのかどうか怪しくなるほどの私であるが、
文化伝統の中心が言葉であるとすると、私は確かにわが国の文化を大切にしている。
『マルクスの人間観』(エーリッヒ・フロム著)を読んでいて疲れてきて、
私は、万葉びとのことはわかるなあと思った。
離れた人を思う気持ちは、亡くなった人を慕う気持ちは、同じだと思った。
そういう心を表す文化が、1300年も前の人々のことが、今自分と同じように思えるというのはすごいことだと思う。
そしてその心の表れが、美しい風土に重ね合わされている。
砂粒のようなバラバラの個人なんてあり得ないと思う。
河原の小石にさえ魂をうつすような、風に乗せて思いを届けるような、
人と人とは、そういう情で繋がれていると思う。