横顔

今日は野田先生の論文のオンライン勉強会。

 

夏らしくなく、ここ数日はずっと涼しい。

メタについて、論理階型についてずっと考えている。

 

 

ジェニーハイというバンドが好きだ。

川谷絵音はジェニーハイを含めて、ゲスの極み乙女とかDADARAYとかindigo la End など

6つぐらいのバンドの作曲作詞に関わっているようだ。

どの曲もそれぞれのバンドらしさの範囲の中にあるのだけど、

新曲が出るたびに、そのバンドの新しい顔を見せてくれる。

川谷絵音の作るこの膨大な曲たちの作曲と作詞と、プロデュース力とに感嘆する。

その中でもジェニーハイは、これがジェニーハイだよねというこちらの想定を、いつも心地よく裏切ってくれる。

 

1曲たった4分弱の時間で、ひとつの世界を作り上げる。

MVもその世界を作る一助になっているし私はMVを観るのも好きだけれど、

映像を見ていると私は音への集中がしにくい。

映像なしで聴くと、聴くたびに新しい発見がある。

こんなフレーズが、とか、こんな間が、とか、ピアノに耳を奪われていたけどベースがこんなことしていた、とか…

 

上手なのは、技術力が高いのは、質が良いということは、当然必要な前提にしている。

人に対する批判は簡単だ。いともたやすく、私はこのバンドは下手だ、と判断する。

私は自分が音楽が下手なので、狙った通りのタイミングで狙った通りの音を奏でることがどれほど難しいかはわかっている。

それでも私は下手な音楽は聴きたくないので、いくら曲が好みであっても下手だと思えば二度と聴かない。

 

だから私の好みはとても限定的だ。許容範囲がとても狭い。

そうした数少ないお馴染みの親しいものの中に、新しい顔を発見するのが私は好きなようだ。

そうだ。私は自分に最も興味がある。

恥ずかしいけれど、私は私が成長していくことに最も興味がある。

私の技術を高めていくことは当然として、私の中に新しい顔を発見することが何よりの楽しみだ。

質的な差異を見つけた瞬間、他に何も要らないほどに多幸感に包まれる。

これは論理階型の上の方での、現場から離れたところの楽しみ方なのだろう。

 

 

 

川谷絵音の多作であるところやそれぞれのクオリティの高さなど、現場のレベルでの凄さはもちろんあるのだけれど、

私は彼の発想力の豊かさに感銘を受けている。

どうしたらこんなにたくさんの顔を持てるんだろうと思う。

バンドごとで使っているペルソナが違うのだろう。バンドごとにそのバンドらしい曲を提供できるというのはすごいことだ。

そしてそのペルソナも少しずつ成長していく。

しかし一貫して、どうしても全ての曲は川谷絵音の音楽なのだ。

これはペルソナの根本にあるライフスタイルの一貫性というものの説明に良い例だと思う。

 

 

 

それにしても私は説明が下手くそだ。

論理を積み上げていくことが苦手だ。

積木もドミノも詰将棋もプログラミングも苦手。

しかしこの論理を磨いていけば、きっと私はカウンセリングが上達するに違いないから

苦手科目にも取り組んでみよう。