今日はプチパセージだった。
子どもたちは夜ご飯を食べて帰って行った。
賑やかな週末と静かな平日と。緩急激しい暮らしに慣れてきた。
私はとてもとても幸せを感じながら、どの時間も過ごしている。
子どもたちはどうなんだろう。元夫はどうなんだろう。
本当のところはわからないけれど、
子どもたちは「楽しかった!帰ったらお父さんと〜しようっと!」と言う。
楽しそうに私と過ごしてくれて、迎えにきた父親と一緒に楽しそうに帰って行く。
何も問題ないように思えてしまう。
私は、自分は本当に幸せだなと思ってしまう。
多分、世間的にはいけないことなんだろうなと思いながら。
幸せになるのも不幸になるのも、自分だけが決められる。
けれども私の幸せが、誰かの不幸の上に成り立っているのであれば、
そういう幸せは私は選びたくない。
自分が幸せになることが良いことなのかどうか、時々私はわからなくなる。
元夫と一緒にいることが私の幸せではなくなってしまったと気づいたとき、
離婚することが元夫にとっての不幸になるのならどうしよう、とも思っていた。
幸いにも、元夫は自分のことよりも子どもたちのことを一番に考えてくれる人で、
子どもたちにとって良い方法を考えようと、話し合いの時間を設けてくれた。
落ち着いて、これからのことについて話し合うことができた。
そして、子どもたちも交えて4人で家族会議をして、これからの生活について話し合うこともできた。
実際に今の私の家に移住するまで、1ヶ月半ほど準備の時間があった。
その間、本当にたくさんの方に手伝っていただいて、引越して家を整えることができた。
どうしてこんなに私は恵まれているんだろうと思う。
今日のプチパセージでも、初めて来られた方が事例提供者になってくださって、ロールプレイをした。
最近来てくださる方たちは本当に素敵なお母さんたちで、
少し子どもさんの勇気をくじいてしまったことがあると、すぐに挽回して、子どもさんを勇気づける行動をとっておられた。
パセージをご存知ない方たちなのだけれど、十分に勇気づける育児をしておられるように感じた。
正直に言うと、私は自分が彼女たちより上手に対応できているとは思えなかったりする。
けれど、パセージを受講された方たちとは明らかに違うところがある。
パセージの援助力は、勇気づけるための方法が言語化されて構造化されているところと、自分自身を勇気づけるグループ療法であるところが大きいのだろう。
パセージを受講すると、子どもの行動の文脈が理解できるようになり、自分のより良い対応を考えられるようになる。
そして、子どもの良いところや自分の良いところが見えるようになってくる。
だから、パセージの手法を用いてみんなで話し合ってみると、同じエピソードなのに悲劇の物語から美しい物語へと変化してしまう。
それは、幸せになるのも不幸になるのも自分で決められるからだ。
全ては仮想だから。
私は悲劇のヒロインにもきっとなれるのだろうと思う。
でも私は自分が幸せだと思い込んでいるから、そちらは選ばない。
何がみんなの幸せになるのだろうかと考えている。
私にできることは微々たることだ。
私は、自分に影響力があると過信するきらいがある。
私はどう行動すれば、みんなの幸せに貢献できるのだろうか。
わからないでいる。