昨日はプチパセージ。
昨日から子どもたちが来ている。
今日は次男のお誕生日会。お友だちをお招きした。
子どもたちのエネルギーはすごい。
ひとり暮らしを始めて、こんなに大人ひとりの生活にはエネルギーが要らないものなのかと驚いている。
子どもたちが泊まりに来て、あらためて、子どもたちとの生活に膨大なエネルギーが要ることに驚いている。
なぜだろう。
お茶を出したら80%の確率でこぼれるので、用事が2、3増える。
お菓子を出したら85%の確率でどのお皿を取るかを争うので、食べ始めるまで2、3の応酬がある。
箸置きを出したら90%の確率でどの箸置きを使うかを争うので、食事の準備が整うまで2、3分の遅れが生じる。
床は一面おもちゃやぬいぐるみや紙や色鉛筆や本や漫画で埋まる。
ただのゴミが宝物になってしまって、どう使うか相談が始まる。
その間ずっとおしゃべりが続いて、ケンカになったりして、何かを出してくれ、本を読んでくれ、おんぶしてくれ、膝に座らせてくれ、お腹すいた(さっき食べたところ!)
…
目の前のひとつひとつに、いつも一生懸命なんだね。
先のことなんて考えない。彼らは、ただ今、ここに生きている。
昨日のプチパセージでは、久しぶりに初めての方がいらしたので、久しぶりに緊張をした。
事例提供者になってくださって、ご自分のエピソードでロールプレイを体験していただけた。
パセージをいいなと思っていただけたみたいでほっとした。
また、パセージ受講後、フォローアップの定例会やパセージプラス受講してくださっているメンバーさんたちも、学ぶところがあったようで、よかったと思った。
様々な方が様々なニーズを持って来てくださるのが、本当にありがたい。
ひとつの場で、同じ時間の中で同じことを体験する中で、
それぞれに違うことを学んで帰っていただけるということが、とても面白いと思うし、そういう場を提供していきたいと思っている。
本当は、パセージを受けていただきたい。
でも、この方と出会えるのは、今日だけかもしれないから、
私はその時できることを最大限やってみたいと思っている。
その結果、ああ勇気づける育児ってこうすればいいのね、わかった!って思って、パセージの受講につながらないこともあるかもしれない。
あるいはもしかしたら、私の熱意に引いてしまって、もっとライトなお勉強会の方がいいなって思って、パセージの受講につながらないかもしれない。
考えだすと余計にわからなくなる。
私はこの瞬間、目の前の方たちに対してどれほどの援助ができるのだろうかと思う。
でも、何を学ぶかは、それぞれの方がつかむことだ。
私はただ、師から学んだことをお伝えし、師から学んだ方法を実践するだけだ。
学びの場は、その瞬間にしかないものだと思う。
時間の芸術である音楽と、とても似ていると思う。
今しか見えない子どもたちの世界とも、似ていると思う。
同じ曲を何度も演奏することはできるけれど、「この演奏」はいつもこの瞬間にだけ存在する、一回限りなのだ。
そしてその音楽から何を感じ何をつかみ取るかは、ひとりひとり様々だ。
聴きかえす度に、違うものを感じる。
好きな曲は、そうやって何度も繰り返し聴いて、いつも新しい何かを感じられるようなものだろう。
私は今とても刹那的に生きているかもしれない。
毎日が同じ繰り返しの連続とはとても思えないでいる。
ずっとこうして生きていけるのならいいなと思う。
こうして死んでいけるのならいいなと思う。
私は新しい毎日を、いつ終わるかも知らないまま、成長を願って学び続けていく。
私はずっと音楽をしている。