枷を外す

昨日は野田俊作ライブラリのオンライン勉強会、

今日はプチパセージと野田先生の論文のオンライン勉強会。


様々なメンバーの仲間との間で学んでいることが、別のメンバーとの学び合いの中でも活かされていく。
相互作用を、感じている。
複数の勉強会や自助グループなどでご一緒する方たちは、私の変化に気づかれているかもしれない。
場によって、メンバーの顔ぶれやテーマ、私の役割によって、私のペルソナは微妙に異なっていると思う。
同様に、ご一緒する仲間たちのペルソナも、場によって、メンバーによって、役割によって、微妙に異なっている。
オンラインであっても、その微妙な変化に少しずつ気づけるようになってきた。
でもそれは、実際に会って深いおつきあいをしているから、気づけることなのだと思う。



今日のプチパセージには、初めての方がおひとりと、常連さん含めて4人が来てくださった。
オンライン勉強会をしていると、マスクをしていても、実際にお会いしている人をたいへん感受しやすく、
私にはめられている枷が外されているような気がする。
いや、ほんとうは、マスクも外して、表情すべてを感じたいけれど。結局もどかしいままではある。


今日意識していたことは、コンテクストを変えるということだ。
親子間での冗長性があって、ある一定のパターンができている。
そのパターンにもし不都合があるとすれば、一度そのパターンを崩して新しいことを試みることが、
より良い関係を築くきっかけになるかもしれない。
その新しいパターンというのが、コンテクストを変更することでも作れるだろう。
そんなことを頭において、エピソードをお聴きし、ブレイクスルークエスチョンズを使って代替案を考えて、ロールプレイをした。

今回の事例提供者さんのお話は、子どもさんとの関係がとても良かったし、面白いことにも挑戦できそうな方だったので
コンテクストをがらっと変更するということを試みることができた。
おそらく、対称的な関係のコンテクストを相補的な関係のコンテクストに変更できた、のではないだろうか。
ご自分のしたいことをなさるお嬢さまはそのまま、でもご自分のすべきことをどうなさるおつもりなのか意識していただけるように、
執事は控えめにご予定をおうかがいする。そして、お嬢さまのご決断がどんなご決断であっても、さようでございますかと承る。
そんな代替案に味付けをしてみた。
現場におられなかった読者のみなさまにはなんのこっちゃでしょうけれど、守秘義務があるのでこれぐらいしか書けない。



ペルソナについての野田先生の論文を勉強したことがとても役に立っている。
もちろんベイトソンの勉強も。

私が何を頭において進行するか、と考えるのは、メタの位置、あるいはメタメタの位置に自分を置いて、現場の進行を考えるということだ。
それを意識できるようになってから、余計なことをしゃべることが減ったように思う。
また、目標に向かういくつかの手段は使えるようになってきたので、
目標を意識することと、どこまで進んでいるか、どのように進んでいるかどうかをメタ(メタ?)の位置でチェックし続けながら、
私の次の行動を選択できるようになってきた。
何が起こってもあまり動揺することなく、落ち着いて選択できるように、徐々になってきたかなと思う。
プチパセージでは(というかカウンセリングでもパセージ中でもだが)けっこう頻繁に、どうなるんやこれは…?と絶望しかかる瞬間があるのだけれど、
場数とメタを意識する訓練のおかげで、絶望度合いも軽くなり、頻度も減ってきた。


どうせ私は絶望するのだ。だって絶対に私の予想通りに物事は進まないから。
でも、私は学んだことを使って、必ずその場で役に立つ方法をお伝えし、学んでいただくことができるはずだ。
パセージやカウンセリングに必要な技術は、私はすべて学んでいるのだから。
そういう治療的楽観性も、メタメタ(メタ?)の意識だ。

そういう高次の論理階型が私の中に意識されるようになって、
私のいくつものペルソナが、様々な論理階型に配置できるようになってきた。
「何をしゃべらないでいるか」ということが私の大きな課題で、
これは、おしゃべりな私のメインになりがちなペルソナにとっては過酷なことではあるが、
ひとりで考えるのが好きな寡黙なペルソナもいくつか私にはあるし、おしゃべりなペルソナも成長してきたので、
より効果的に私がはたらきかけられるように、制御するのが少しずつ上達してきた気がする。

学ぶことは楽しい。
それを実践できる場があることがありがたい。
実践は怖かったけれど、仲間のおかげで、楽しめるようになってきた。