濁流

今日はかなり珍しく、友人に付き添ってシャバに出た。

 

仕事の他は、家族とアドラーやパセージ繋がりの人たちとしかほとんど接触しない日常を送っているため、

というか仕事もアドラーやパセージを中心にしているので、価値観が似通った人々との繋がりの中で私は生きている。

本当に本当にありがたいことに。

うちにはテレビもないし、そもそも地上波の内容を知る気もないので、

私は本当にオリンピックが開催されているのかどうかも半信半疑、というぐらいの浮世離れした生活を送っている。

だから、ごく一般的な現代日本人の生活をしている人々のところへ出かけて行くことを、私はシャバに出ると表現したくなる。

 

浮世離れした暮らしをしているもので、私はかなりつれないお客だと思った。

もうなるべく物を増やしたくないし、車は乗らないし、

買うとしても必要最低限で、

食材は主に生鮮食品で加工品は買わず、見切り品でも十分だと思うし、

可能な限り中古物品を選びたいし、

今後も贅沢に購入するだろう物は、ノートと印刷用紙とプリンターのインクかな。

いや、これらは仕事道具なので消費財ではない。経費で落ちるやつだ。

私は物欲を制御することにかなり成功していると思う。

 

 

友人と別れて、振り込みをするために大型ショッピングセンターのATMコーナーに寄り、

建物の中を通って帰宅しようと歩いていたら、

「よかったらどうぞー」とティッシュを配っているお姉さんに声をかけられた。

「あ、ありがとうございます」と受け取ると、

「今日がキャンペーン最後の日なんです!なので今だけ無料で防災用品をお配りしているんです、こちらから選んでください!こちらへ!どうぞどうぞ!」

ー「はあ、どうも…」(しまった。防災用品?いらんなあ…)

「これなんですけど、どのお色がよろしいですか?」

ー「え?」

「これ、防災対応なんです、とっても便利なんですよ、今だけ無料でお配りしていますのでどうぞ選んでください!」

ー「え?え?よくわからないんですけど…」

「あはは、みなさんそういう反応されます〜。そうなんです、びっくりされましたよね、これ、防災用品なんですよ。」

その無料で配布中という防災用品とお姉さんが指し示している物は、ウォーターサーバーだった。

ー「これですか?」

「そうなんです。今キャンペーンの最後でして、昨日から無料でお配りしているんです。昨日は85台もお配りしたんですよ。不要になったら無料で返してもらったらいいですので、とっても便利ですし、美味しいお水なんですよ、替えのタンクも無料でお届けしますので…」

ー「あの、うちは置くとこないんでいいです。」

「ああ、そうなんですね。でもこちら、とってもスリムなタイプなんですよ。こちらご覧ください。圧迫感もないデザインですし!ちなみに普段お湯ってどうやって沸かしてらっしゃいます?」

ー「え?」

「お湯、どうやって沸かしてます?ヤカン?電気ケトル?お鍋?」

ー「…やかんですけど…」

「おめでとうございます!今日からそれ、卒業です!」

ー「は?」

「普通のウォーターサーバーって出てくるの、お湯なんですよ。でもこれは、お湯を超えたんです!」

ー「は??」

「お湯、出しますね。はい!触ってみてください!」

お姉さんはハイテンションで喋り続けながら、ウォーターサーバーの赤いレバーから出した液体の入ったプラスチックのカップを私の方に近づけた。

ー「はあ…」

「あ!気をつけてくださいね、熱いですから。どうですか?熱いでしょう?」

ー「はい…」

「この商品は、熱湯が出るんです!普通はもっとぬるいお湯しか出ないんです。」

ー「はあ、そうなんですね。」

「しかもこれは電気を使わないので、災害時でも使えるんです。どうやってこのお湯の温度を維持しているかと言いますとね…」

これはまだまだ喋り倒すなと思い、お姉さんが息継ぎした瞬間に私は口を挟んだ。

ー「あの、申し訳ないですけどやっぱり私、要らないです。」

「そうですか〜」

ー「はい。失礼します。」

「ありがとうございました〜」

 

激しい攻防戦であった。

シャバに出るとどっと疲れる。

 

いわゆるキャッチセールス。

需要のないところにまで商品を押しつけなければ、もう売れないのかもしれない。

消費者が欲しいと思う物を、欲しいと思えるようなコンテクストで提供すべきだろうと、大変不快に思った。

しかしあのテンションといい、喋りといい、有無を言わせない感じといい、あの若くて綺麗なお姉さんが1人で考えついたはずがない。

きちんと教育訓練された賜物だ。

フット・イン・ザ・ドアとかいうテクニックを応用していたり、唐突に突飛な質問をしたり、自分の話に引き込むのが見事だった。

これらは全て、心理学の応用である。

こういう場面に直面すると、心理学を学んでいますと人に言うのが恥ずかしくなる。

人を操作するために心理学を使うことを私は許せない。

 

私が許そうが許すまいが、この高度消費社会は、心理学のテクニックでもって維持されているのが事実である。

商品の陳列も、商品棚の配置も、コマーシャルだってコマーシャルソングだって、もちろん広告、パッケージデザイン、キャンペーン、ポイント、商品開発の物語、ブランディング、紹介者の面子、その他ありとあらゆることが、

心理学的裏付けのもとに工夫され、消費を煽る方向に結託して動いている。

この大きな濁流に棹差して、消費しないという選択をするのは、大変なエネルギーが要る。

 

 

アドラー心理学も、すでにもう随分と応用されているのかもしれない。

私はシャバのことには詳しくないが、どうやらこの社会に適応的なアドラー心理学が広まっているようだから。

私が学んでいるアドラーへ遡れる系統のアドラー心理学は、現代社会への痛烈な批判を思想に含んでいる。

だから、大衆迎合的なアドラー心理学など存在するはずがないのだけれど。

 

 

濁流は勢いを増している。

流れに逆らって棹差すこの船はあまりに小さい。

けれど、それはアドラー本人だって同じだったと思う。

ロシア革命第一次世界大戦と、オーストリア帝国の崩壊と、

そんな激流の最中に、アドラーは社会思想に夢を見ることをあきらめ、

共同体感覚という思想に到達したのだ。

この濁流があるからこそ、私たちはわずかにでも、アドラーの苦悩とそこから生まれた財産の価値に思い至れるのだと思う。