何も要らない

今日はプチパセージ。

夕方からは子どもたちが来てくれた。

 

 

今日はプチパセージとして開催したけれど、

来てくださった方はみなさんがパセージプラスも受講された常連さんだったので、エピソード分析をさせてもらった。

相手役さんは大人だったので、エピソード分析を用いたカウンセリングを行った。

私はエピソード分析をさせてもらう機会が少ないので、たいへんありがたかった。

場数を踏まなければ、技術は上達しないから。

とはいえ、ただ場数を踏んだだけでも技術は上達しないだろう。

 

ベイトソンによると、量的変化と質的変化は違うレベルのものだという。

エピソード分析には決まったアルゴリズムがあるので、カウンセリングの構造は見えやすいのだけれど

仲間たちと事例検討会で話し合ったり、講座のシェアリングをしてもらったり、講座を受けたりすると、

ああ、ここはそういう風にやってみればいいのか!という新しい気づきがいつもある。

実際にやってみてうまくいかないところや、クライアントさんが詰まってしまうところなどもある。

なんとか挽回して最終的にはどうにか着地できるようになったけれど、

それでもクライアントさんにできるだけ負担のないように、上手にできているわけではない。

方針、デザイン、詰将棋、ゲッシング、

質問の組み立て方、良い質問の仕方、間の取り方、時間の調整…

ひとつ学ぶごとに、さらに私に必要なことが見えてくる。

理想がどんどん遠のいていく。

 

 

場数を踏むことは、私にとっては怖さを乗り越えていく過程だ。

これは量的な変化の範疇だと思う。

失敗したくなくて緊張しやすい私は、場数を踏んで、失敗してそれを挽回する体験を繰り返すことで、

失敗を恐れず、不要な緊張をせず、パセージリーダーやカウンセラーとしての自信を持てるようになるのだろうと思う。

そして、やっと、拙くても、アドレリアンカウンセラーとしての合格点は満たせるようになってきた…(ように思う…)。

自助グループでベテランカウンセラーの先輩たちのもとで学べる人たちが心底羨ましい。

私も機会を見つけて、各地の自助グループで開かれているエピソード分析勉強会に参加したい。

 

質的な変化は、おそらく急に起こるものではなくて、それまでの学びの蓄積と結びついて起こる変化なのだろうと思う。

アドラーの著作や野田先生の論文を読んで、講座に出て良いカウンセリングを見て、先生方のお話を聴いて、仲間と勉強会で話し合って、

そうやってカウンセリングについてたくさん学んだことが、

実際の自分のカウンセリングの実践とある日結びついて、ああこれか!と気づく。

 

 

その気づきの瞬間が、私にはとても嬉しい。

他に何も要らない、というような多幸感に包まれる。

おそらく私は脳内麻薬が多いんだろう。ハイになるという表現が近い気がする。

私はこうやって仲間と共にカウンセリングについて学び、考え続けていられたらそれだけでいいと思ってしまう。

 

…親としてどうなんだろうと思う。

でも、私がカウンセリングについて学びが深まるごとに、私は子どもたちとの付き合いも上手くなってきたように思う。

彼らと過ごす限られた時間を、お互いに穏やかに暮らせるようになってきたと思う。

男3人で暮らしやすいように、家中模様替えをしているそうだ。

子ども部屋も、自分たちで考えて色々変えたらしい。

どんどん頼もしくなっていく。