哲学と思想

昨日は野田俊作ライブラリのオンライン勉強会でした。

今日は絶対的休日。


中島義道の『哲学の教科書』を10年以上ぶりに読み直しています。

野田先生が、あああれはいい本ですねと仰ったことだけ覚えていたけれど、

中身は全然覚えていませんでした。


哲学は徹底的な懐疑

思想は徹底的な信念

そういう差異があるように思います。

現場では思想が役に立つのだと思います。

けれど、哲学がメタに立てるのだろうと思います。


アドラー心理学の思想は、一言で言うと共同体感覚の育成なのだろうと思いますが、

アドラー心理学が拠って立つ哲学は「かのように哲学」です。

「かのように哲学」は、我々のいう現実は自分の切り取ったものであるかのように認識しているだけだよと、

そしてそう認識している私というものが変わりなく確かに存在するかのように我々は想定しているよ、

ということを突きつけます。

まるで足元の地面が、砂時計の砂のようにサラサラと穴の中へ落ちていくような感覚を覚えます。


ある人々にとっては、確固とした私さえ疑う哲学は恐ろしいものだろうと思います。

かのように哲学に限らず、哲学は恐ろしいものだろうと思います。

思想の方が、安心できるのです。打ち立てられた建物のようで。

でもその土台は、砂なのです。

いつだって砂のような哲学的問いが、建物を傾けます。


「かのように哲学」のすごさは、

私の世界が堅牢な建物であるかのように信じることもできるし、

もっと良い代替のかのようにを信じることもできる、

我々はすべて何らかの仮想の世界を通して生きているということを言ってしまったことだと思います。

つまり、不幸であるかのような人生も、幸福であるかのような人生も、自分で選んでいるということで

その意味づけを他の誰のせいにもできないのです。


アドラー心理学を学ぶ人の全てが、アドラーの拠って立った哲学まで、あるいは宗教観まで、賛同できなくてもまったく問題ないと私は思います。

アドラー心理学は科学ですから、理論と技法、そして思想までの賛同がなされていれば問題がないと思います。

思想は、その学問の目指す目標です。掲げる理想です。

ですから、どれほど理論と技法を学んでも、アドラー心理学の目指す目標に向かわずに使う限り、アドラーの弟子とはいえないでしょう。


(ただし、アドラー心理学の基本前提の中に仮想論が含まれていますから、「かのように哲学」を少なくとも部分的には採用をしなければ、アドラー心理学を理解していることにはならないだろうと思います。)


哲学的に、つまり自分ごととして、

どこまでもどこまでもアドラー心理学を信じ疑いを抱き、突き詰め続けて生きていくことは、

きっとごく少数派の生き方なのだろうと思います。

私はそうやって生きていきます。

ごくわずか、同じように生きていくことを選んだ仲間が私にはいるから、寂しくはありません。

そうやって今生を終えていこうと思います。

他のことはすべて、瑣末なことです。