絶対的全体論

健康かどうかの判断は、共同体感覚の寡多によると、アドラーの著作に書いてあります。

最近、本当にそうだなあと思うようになりました。

 

生きている限り困ったことは起きます。

ライフタスクは、様々に降りかかってきます。

ときには、手詰まりのように感じて、どうしようもなくなることもあります。

でもそのときに、同時にいくつものライフタスクで大きな問題が起きても、

神経症になることなく、精神病になることなく、建設的に行動できる人もいます。

 

私はチベット仏教のお坊さまのことを思います。

私には思い及ばすことのできない地獄をくぐり抜けて来られた方たちのことを。

あの方たちは、ご自身のことではなく、人類全体のために祈っておられます。

その人類全体の中には、ご自身を、家族を、祖国を、滅ぼそうとする相手たちも含めて、

すべての人類の幸せを祈っておられます。

そんなこと人間にはできないと思うでしょう。

あの方たちは、菩薩さまなのです。

だから小さな私に、同じようにできるわけはありません。

だけど、あれがきっと最も美しい人間の姿なのだと思うのです。

 

 

アドラー心理学は宗教なのか?という疑問は、多くの人が抱くものでしょう。

ルフレッド・アドラーは、宗教対立の激しい19世紀末のウィーンに生まれました。

アドラー心理学は、科学です。

とても慎重に宗教色を抜いて、科学として作りました。

でも、科学の部分と、何らかの宗教への信仰と併せて、

アドラー心理学は完成されるようにデザインされています、という説を私は支持し、

野田先生に師事し、優子先生に師事し、学んでいます。

アドラー心理学を学ぶ人たちの中にも、様々な見解があります。

何らかの宗教への信仰なく、ただ共同体感覚という思想だけでもよしとする、

アドラー心理学はきちんと機能するという立場の人たちもいて、

日本ではそちらの方が多数派かもしれません。相対的全体論的立場というそうです。

 

私は、人間を超えた大きなものの存在を信じることなしに、

共同体感覚という思想は心でわかることはできないんじゃないかと思います。

この私の見解を、絶対的全体論的立場といいます。

どちらが正しいかなんてわかりませんが、

どちらもアドラー心理学ですし、手を結べるところはたくさんあります。

しかし、どうしても分かり合えない部分があることも確かです。

 

 

たくさんの事例について話し合い、本を読み、実際にお聴きして、

今思うのは、人間が困難を切り抜けられるかということは、

降りかかってくるタスクの大きさ、重さ、多さによるのではなくて、

それらのタスクをどこまで、自分の運命だと受け入れ、

自分で引き受けようとし、応じていこうとするかによるのだと思います。

そのように生きていくためには、数々の試練を、理不尽な出来事を、

私にとってどういう意味があるのかとか、

私が幸せになるために私はどうすればいいのかとか、

そうやって自己執着にまみれて考えるのではなくて、

みんなにとってどういう意味があるのかとか、

みんなが幸せになるために私はどうすればいいのかと、

共同体感覚に向かって考えるしかないと思います。

その試練が大きければ大きいほど、重ければ重いほど、

そのように共同体感覚へ向かって生きていくために、

自分一人ではない、自分を超越した大きな存在を信じる力が必要になると思うのです。

 

でも、私はクライアントさんにそこまで求めているわけではありません。

その深い森を抜け出すまで、共に歩んでくれるセラピストが、

神さまや仏さまの光をお借りして、傍で照らしていれば、

きっとクライアントさんはご自分の道を見つけられると思います。

 

 

私がカウンセリングのご依頼を引き受けるかどうか判断するとき、

いつも共同体感覚の視点から見ています。

ご自分をどうやって役立てられるのかと困っていたり、

相手と仲良くするにはどうしたらいいのかと困っていたり、

そういう風に、ライフタスクに対して

私には何ができるかという目標を考えることができる方であれば、

アドラー心理学のカウンセリングの筋道でご一緒に考えていけるだろうし、

私がお役に立てそうだと思います。

ライフタスクの大きさ、重さに関わらず、

共同体感覚に向かって生きていこうとしているその方は、健康だと思えるからです。

 

 

カウンセリングの依頼を引き受けないということは、

私のためだけではなくて、その方のためでもあります。

私は未熟です。お互いのために危険な道は選べません。

そこに待ち受けている危険とは、私がその方を救おうとしてしまうことです。

私がもっと腕のよいカウンセラーになって、

心理療法の技術も確かに身につけることができるようになれば、

お役に立てる範囲も広がります。

今の私には、現在の行動を変えてみる、というカウンセリングの範囲内で、

しかも、共同体感覚をかなりしっかりと意識できる方でなければ、

お役に立てないと思うのです。

だから今の段階ではカウンセリングではないところで、

自助グループやパセージの中で、

共同体感覚に目覚めていただけるように、様々に働きかけていこうと思います。

 

リーダーやカウンセラーの役目になるとき、私が意識しているのは、

私がこの方を助けるんじゃなくて、

仏さまのお力によって、この方のお役に立てるように

私を動かしてください、ということです。

 

 

アドラー心理学は宗教ではありません。科学です。

でも、実践するにあたっては、宗教的な力添えが必要だろうというのが

おそらく少数派の、私の見解です。

巷に流布しているアドラー心理学という名前のものを見ていると、

私は化石のようだなと思います。

こんな厳しいものが流行るわけもないなと思います。

だけど、私はこのような時代に生まれてしまったのだから、

嘲笑されながらでも、私の信じることを信じて生きていこうと思います。

こんな私のところに仲間が集まってきてくれていることは、奇跡的です。

 

 

チベットのお坊さまたちのことを思えば、

私はどれだけぬるま湯の中にいることかと思います。

私にはいったい、何ができるのでしょうか?