カルマ

今日はアドラーの著作のオンライン抄読会だった。

健康と不健康の違いは、共同体感覚の過多によると思う。
共同体感覚は、「これはみんなにとってどういうことだろう、みんなのために何ができるんだろう」ということだと言われる。
共同体感覚の反対語の自己執着は、「これは自分にとってどういうことだろう、自分のために何ができるんだろう」ということだ。


私は恐がりなので色々なことに恐怖を感じる。
そういうとき、私の意識は私に向かっている。
こうして私の頭の中身を公開することも、
意見の違う人の意見を聴くことも、
カウンセリングをすることも、
私にとっては恐いことだった。
今も恐くないと言えば嘘になるけれど、
私の言葉を読んでくれる人がいることがわかったから、
違う意見を伝えてくれることはとても勇気のいることだとわかったから、
クライアントさんは私を信頼し、カウンセリングを受けるという勇気ある選択をされたとわかったから、
そういう相手のことを思い浮かべると、恐怖は取るに足らないことになる。
その瞬間、私は自己執着を手離して共同体感覚に向かっているのだと思う。


私にはたくさんの仲間がいる。
たくさんのご縁のある方たちがいる。
今私の言葉を読んでくださっているあなたも。
私はおそらく過激派の少数派だ。
誰も私の意見に全面賛成はできないということもあるかもしれない。
それは、それでいいと思えるようになった。
ある部分で、あるいは全部、私の意見に賛同しない方がいることは健全な世界だ。
ある意見を持つ私は、しかし、意見の違う誰かとも、
仲間でいることができるはずだと信じようと思う。
私の意見が私なのではないから。
私の身体が私なのでもない。
私は、この身体を容れ物として、輪廻を巡るカルマだから。
そのカルマのレベルで出会えたと信じられる人たちと共に、私は生きていると思う。
私はそういう物語を選ぶことにした。


そうすると、今、意見が一致しないことに対して、深刻になりすぎることがなくなる。
私は自分の意見をとても大切に思うけれど、
その意見から少し離れてみようとも思う。
共同体とは、過去現在未来すべての人類を含むのだという。
私の愚かなひとつの意見が、どれだけの意味を持つのか。
私の意見に意味を与えるのは、私が過去の人たちから学んだことだと思う。


野田先生の弟子たちについて、まるで先生を教祖のように崇めていると批判する人が、いつの時代もいる。
私もそのように思われているのかもしれない。
そう思う方は、そういう物語を生きておられるのだろうから私にはどうしようもないけれど、
私は野田先生の弟子だ。
だから、野田先生が良いと仰ったことは良いと信じ、良くないと仰ったことは良くないと信じる。
私は優子先生の弟子でもあるから、同じことだ。
そこに理屈はない。
野田先生も優子先生も、私よりもはるかにアドラー心理学を理解しておられるのだから、
私がアドラー心理学を実践し学んでいく上で、師の言葉を唯一の判断基準とすること、それ以外にどういう方法があるのか私にはわからない。
そして私は世俗のことにはたいへん疎く、社会常識も知らないので
そのことを現代社会の用語でどのように説明し、組織化していくべきことなのか、私にはわからない。
ただわかるのは、師の教えをそのまま次の世代に受け継いでいくことが私の役目であるということだ。
そのときに思う次の世代である共同体には、私の子どもたちやまだ見ぬその子どもたちも含まれている。
私が私のためにアドラー心理学を学び伝えようとしていない間は、
私は共同体感覚に向かっていると思う。