私は私じゃない

昨日と今日は、絶対的休日だったような気がする。


絶対的休日というのは野田先生が「野田俊作の補正項」というブログで使っておられた言葉だ。
何もしなかった日だぞ!という意味らしいのだけれど、そう言いながらも先生はたくさんの用事やお仕事をこなしておられた。
だから、はっきりとした仕事をしていないというぐらいの意味だ。
そういう私も、今日は何もしなかったぞ!と思っても、意外と大事なメールのやり取りをしていたり、SNSで色々相談していたり、
けっこう用事をこなしていたりする。
用事があることはありがたいことだと思う。
私を俗世に繋ぎとめてくれる。


私は何かと考えている。
今日は少しだけ野田俊作ライブラリの文字起こしをしていて、私とは何かについてのお話があったのだ。
いわゆる私とは、つまりライフスタイルとは、あるいはアイデンティティとは、
周りから教えられたこと、学習の成果であって、「私」そのものではない。

ライフスタイルを手放すことを、最近意識している。
私の好き嫌いは、快不快は、おそらく仲間たちの役にあまり立たないんだろうと思うようになったからだ。
私の好き嫌いを手放して、快不快を超えて、すべきことや私を活かせることがきっとあって、
それが本当に仲間の役に立つことなんだろうと思う。

例えば私はメールが苦手だ。人と連絡を取り合うのが好きではない。
でもそんなこと言ってたら自助グループなんて開けないしパセージも開けないので、
40人ぐらいのお知り合いに頻繁にメールをさせてもらっている。
不足はあるだろうけれど、ご迷惑にならないように文面にも気を使う。
そうしているうちに、たまにとても嬉しいお返事をいただくこともある。
私たちは心が繋がっているなって思えるようなときが、ある。
私が私を手放したから、得られるものなのだろうと思う。
だって、相手からのその言葉を、私は欲していたわけではないから。
いつも思いもよらないことがやってくる。

このブログも、私のために書いているかというと、もうそうではないような気がする。
確かにアウトプットの訓練になっている。
でも、私の動向を気にかけてくださる奇特な方々への、私は生きているよというメッセージになっていたりもする。



この36年近くの連続した時間のすべてが、「私」であったということが、信じがたいことだ。
私の好き嫌いは、快不快は、刻々と変化している。
ある日の私が好きだったものは今はもう好きではなくなり、
ある日の私の理解できなかったものは今やなくてはならないものになっている。
私は、私の感情や思考からも、一貫した「私」を説明することができない。


私は一貫した私を維持し安心するために、私があるかのように思い、私があるかのように振舞ってきたのだろう。
でも多分そんなものはない。
そうであるなら、私は、私を手放すことができるはずだ。
私は、ある側面では、私を通ってきた情報の集まりなのだろう。
だから私は、身に付けた技術を使って人のお役に立つことができる。
過去の瞬間瞬間の私が、今の私と違うことを感じ考えていたとしても、私に身についた技術は、変わりなく役に立つ。
だから私は、私の思うような私でなくなったとしても、人の役に立つことができるはずだ。