今日はカウンセリングと、野田俊作ライブラリのオンライン勉強会でした。
メタについて、最近私はいつも回帰します。
相談するというのはメタのレベルなのだと思うようになりました。
現場レベルでの動きについて考えるときは、
たとえばお芝居の練習中に、演技指導をするとき、
パセージでロールプレイ中に、事例検討者さんに確認したりするとき、
カウンセリング中に、どんなことについて相談したいか、どういうことを目指したいかという相談目標を考えたりするとき、
エピソード分析中に、協力的目標か競合的目標か相談したりするとき、
クライアントさんやメンバーさんが、瞬間瞬間、どういう状態かを観察するとき、
そういったことを話し合ったり相談したり観察したりするときは、
メタの位置にいるのだろうと気づきました。
カウンセリング中の二重見当識は、
一方ではクライアントさんの立場に立って、クライアントさんの目で耳で心で感じるものを感じようとし、
もう一方ではカウンセラーが学んできたアドラー心理学の理論に照らし合わせて、今何を学んでもらうことが援助になるだろうかと考えることです。
これも、メタのレベルでの思考だと思います。
そして、おそらくもうひとつ上のメタメタのレベルで、
カウンセラーである私が、どのような状態であるか(二重見当識を保てているか、緊張度合いはどうか、体の状態はどうかなど)とか、
クライアントさんがどのような状態であるかとか、
カウンセラーとクライアントがどのような関係性であるかとか、
この場の状態はどうであるかとか、
そういったことを観察しているのだろうと思います。
このメタメタのレベルには、
協力的な構えでいるべき(当為)ということや
共同体感覚を学ぶ場であるべき(当為)ということも含まれていると思います。
これは、アドラー心理学の思想のレベルです。
様々なオンライン勉強会で学んだことが、(それこそメタのレベルで)結びつき合い、私の中で化学反応が起こり、
こうしてまとまりきらないままで言葉にしています。
読んでおられる方々にはなんのこっちゃかもしれませんが、メタという概念はたいへん便利です。
自分を俯瞰して見ることができます。
すると、自分の身体から離れ、感情から離れ、思考からも離れることができます。
これは瞑想で行っていることでもあると思います。
説明を重ねるほどに、なんのこっちゃが重なっていくような気もしますが…。
野田先生の論文のオンライン勉強会で、野田先生のブログを読み合わせして学んだことがあります。
2017年2月18日の『野田俊作の補正項』
「メタの次にはメタメタを考える」
http://jalsha.cside8.com/diary/2017/02/18.html
(初見の方は前日の記事を読んだ方が理解しやすいかもしれません)
勉強会のその日は理解できなかったのですが、ずっとぶらさげながら勉強を続けていると、
ある日、ああそうかこういう論理階型か、と腑に落ちました。
理論よりも思想の方がメタレベルが上なのです。
だから、理論レベルで完全に理解し合える人々と、思想レベルで噛み合わなければ、
技法レベルではまったく別のことが行われる、ということもありえるわけです。
思想レベルを別の言葉で言い換えれば、それは当為(〜であるべき。sollen、should)のレベルであり、
理論レベルを別の言葉で言い換えれば、それは存在(〜である。sein、be)のレベルです。
それで、自分の身体や感情や思考から離れて何がいいのかというと、
自分の自己執着からも離れて考えることができるのが良いことだと思います。
私の苦しい楽しい、したくないしたい、そういう自分本位なことではなくて、
私のすべきすべきでない、みんなのためにすべきすべきでない、というメタのレベルから
私の現場レベルでの行動を考えることができるのです。
たとえば、私は疲れていても、ご飯を作らなければいけません。
それは子どもたちを育てるためです。
なんで私だけ疲れていてもご飯を作らなきゃいけないのよ!なんて、だらだらしている家族に対して陰性感情を抱くときがあるとすれば、
そのとき私は現場レベルにいます。
そんなこと思ったって、誰かがご飯作らなきゃいけないんだから、私がしようとか、
今日はご飯作ることを夫にお願いしてみようとか、
そういう風に次の行動を考えるとき、必ず私たちは一旦メタのレベルに上がっているのだと思います。
パセージでは、何回もメタの階段を上がっては、現場のレベルに下りて自分の身体の状態や感情の状態、子どもさんの様子などをチェックします。
そしてまたメタのレベルに上がって、パセージの内容を確認したり、代替案を考えたりします。
メタのレベルは、現場ではなくて、お芝居の外側なので、冷静に話し合いができるのだと思います。
そして、そこで話し合いがなされるということが、もう一段上のメタメタで考えると、たいへん協力的な場である、と意味付けることもできます。
パセージが共同体感覚の育成の場であるようにするのがパセージリーダーの任務であると、野田先生から教わりました。
私たちは野田先生から、メタの使い方をたくさん学んできたんだなと思います。
アドラー心理学を学んでいくことは、野田先生の思い出を掘り起こす作業です。
これもまた、私ひとりではとても辛いことだったと思います。
同じように野田先生から学んだことをより深め、伝えていきたいと思う仲間たちと共にメタのレベルでも学び合えるから、
私は現場レベルでの寂しさに飲み込まれそうになったときも、正気を保って、すべきことを選び続けていられるのだろうと思います。
とか言いながら、私はまだ野田俊作ライブラリを聴くことはできないでいるのです。
メタの階段を上るのは、訓練もいるし、いつだって軽やかに駆け上がれるというわけでもなさそうです。